編集長日記(6)東海ブロックで、長篠合戦の古戦場を見て来ました!!

By | 2019年11月24日

編集長日記(6)「東海ブロックで、長篠合戦の古戦場を見て来ました!!」

 先週、東海ブロックに参加して、愛知県新城市の長篠合戦の戦場跡のフィールドワークに行ってきました。歴教協ならではの愛知の県支部の企画で、長年地域調査を重ねられている地元の教員の方の詳細な説明を聞きながらの贅沢な見学でした。個人の見学では、交通の便だけでなく、こうした点で決定的に異なることを実感しました。来年の愛知大会の東海ブロックの広域のフィールドワークが俄然楽しみになって、大会への期待が高まりました。

最初に徳川・武田の攻防戦の舞台となった長篠城跡を訪ね、本丸周辺の堀跡から始まり、周囲の道筋、川筋を回り、山城としての堅固さを体感して、本丸跡に立つ長篠城跡史跡保存館を見学しました。この保存館には、鉄砲をはじめ数々の、長篠合戦関連の遺品が展示されています。中でも目を惹くのはやはり『長篠合戦図屏風』です。合戦場のジオラマもあって、どこで実際の戦闘があったのか、注目して見て来ました。

 その後、いよいよ古戦場である設楽原を訪ねました。現場には、有名な織田・徳川側の馬防柵が復元されていますが、もちろんこれは現代の復元です。しかし、そこから武田側を見ると、実際の戦争の様子がリアルに想像できました。武田の強力な騎馬隊に備え、馬防柵だけでなく、連吾川、土塁、空堀、そして田んぼが両軍の前に広がっていました。これでは武田側容易に織田・徳川軍にたどり着けず、火縄銃の一斉射撃の前に敗れ去りました。今まで通説だった火縄銃の三段打ちについて、相当な疑いが出されていますが、それが無くても、この戦場の状況なら大量の鉄砲さえあれば、織田・徳川側の勝利は間違いないことがわかります。季節も梅雨明け前後の6月末です。

馬防柵は2kmに渡り作られたそうですが、織田・徳川軍3万8千、武田軍1万5千の大会戦が起こった場所にしては極めて狭い範囲で、実際に見るととても全軍が入り切らない広さで、その点は中々信じられません。こうしたことも現場を見てこそわかることで、是非、

今後授業する際には、取り上げたいところです。

 最後は、設楽原歴史資料館を訪ね、大量の鉄砲などの展示品を見るとともに、屋上から長篠合戦の古戦場とその周辺の地域を展望しました。ここでは学芸員の方の合戦の背景、特に武田勝頼が、なぜ不利な戦いに敢えて信玄以来の重臣の反対を押し切って挑んだのか、というこの合戦最大の謎について、解説して頂きました。やはりもともと嫡男ではなく、武田の滅ぼした諏訪氏の血筋からたまたま武田家を継ぎ、父信玄と比較されて、功を焦ったことが判断を誤った原因とのことでした。そもそも畿内で一向一揆と死闘を演じる信長の参戦を予想していなかったのかも知れないとの説明もありました。

 戦場跡には武田の重臣の墓や両軍の戦死者をそれぞれまとめて供養した大塚・小塚という墓地もあり、今でも供養が続いていました。それらも今では地元の町おこしの観光資源となっていて、そこら中に宣伝の看板がありました。これも現地を見てわかる雰囲気でしょう。

 これまで『歴史地理教育』にこの長篠合戦を取り上げた授業実践が幾つか掲載されています。近年のものでは2016年4月号の大谷伸治氏の「小学校の授業6年 歴史学のおもしろさを伝える─信長が長篠の戦いに勝った理由を考えよう」です。これらの先行実践を参照しながら、やはり長篠合戦図屏風を教材にそれと実際の戦場跡で見聞したものを比較して、次回の実践に臨みたいと思います。屏風には三段打ちも描かれていませんし、設楽原戦場が大きく描かれていて、長篠城との距離が極端に狭くなっています。前線で鉄砲を構える兵士が鎧兜を着けていて、鉄砲足軽ではありません。馬防柵に守られて戦ったといいながら、その柵を出て戦っている者も屏風には描かれています。武田側も敵が柵の後ろにいては攻めてこなかったはずです。こうしたことも現場を見ると、絵画史料を批判的に見て、その真偽を考える授業の材料になります。

授業で是非これを取り上げたと思わせて頂いた今回の東海ブロックのフィールドワークでした。ご準備頂いた関係者の方々に深く感謝致します。(若杉温)