<キッズコーナー 公民(政治・経済・倫理)>

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▼「江戸時代の一文銭は今のお金にすると、どのくらいの価値があるのですか」(小学校5年生)
◆いろいろあった寛永通宝◆
まず、江戸時代のお金について話しておきましょう。江戸時代は三貨といって金・銀・銅という三種類の貨幣が使われていました。金貨は大判・小判として知られているもので一番値打ちがありました。千両箱という言葉をしっていると思いますが、小判一枚が一両になります。銀貨は丁銀といい長細い形をしていて、重さを量って切りとって使われました。これら金銀貨は徳川家康の時代から鋳造されましたが、庶民の日常生活にはあまり使われることのないお金でした。
庶民が生活上利用したのは銅貨で、銭形平次が悪党にぴゅんと投げるのもこれです。金・銀貨に少し遅れて寛永一三(一六三六)年に鋳造され始たので、寛永通宝といいます。それ以前は中国からの輸入銭を使用していましたから、久々に登場した質の良い国産銅貨でした。重量も現在の五円玉とほぼ同じ重さの銅一匁(3.75グラム)以上と定められています。真ん中に穴があいているのは紐を通すためで、一〇〇枚(実は96枚)くくって一まとまりにされていました。一六七〇年には他の銭貨の流通が禁じられ、以後何度も鋳造されましたが、寛永通宝のデザインは変わりませんでした。
しかし、銭貨が全て一文だったわけではありません。一七六八年につくられたひとまわり大きな真鍮製の四文銭があります。裏に波形の模様がついているものがこれです。さらに一八三五年には少し大きな小判型の天保通宝が作られ、一枚で百文として利用されました。また、幕末になると小型で鉄製の価値の低い寛永通宝も出回るようになりました。ひょっとすると銭形平次は、四文銭を投げないように、できれば鉄銭を投げるように注意していたかもしれません。
◆相場で動く銭の価値◆
四文銭・百文銭は寛永通宝一文銭四個分・百個分の重さはありませんでした。本来、銭一文の価値は銅一匁の価値であったわけですから、四文銭などが流通するようになると、銭貨の価値が下がってしまいます。寛永通宝ができた当初は、金一両=銀六十匁=銭四貫文(四〇〇〇文)で交換されていましたが、四文銭が出た頃から銭貨が安くなり、やがて一両=六貫文(六〇〇〇文)くらいに落ちてしまいました。
米がいくら買えるかという視点で比べると一八世紀はじめには一〇〇文で米三升買えたが、一八世紀半ばには二升を切るようになり、一九世紀に入ると一升前後になってしまいます。この頃の物価は季節や豊凶によってかなり変動がありますが、銭貨の方にも要因がありました。幕末にはさらに物価が上がってしまいます。だから一文銭は今のお金にするとどのくらいという風にはなかなか答えられないのです。
◆一九世紀はじめの庶民生活◆
一八世紀はじめには、まだ丸の内から浅草観音まで食べ物屋が全くなく、米も一〇〇文以下の小売りはなかったといいます。買い食いするとか、荷い売りの小商人から小額の銭で物を買えるようになるのは一八世紀半ばからです。そこで、文政年間(一八一八〜二九)の庶民の生活を紹介しますので、物価について自分で考えてみて下さい。『文政年間漫録』には、大工の場合「一日工料四匁二分、飯米料一匁二分をうく」とあります。当時は銀一匁が銭一一〇文ですから、あわせて五九四文になります。天秤棒で青菜などを売り歩く棒手振りといわれる人々は、一日四〜五〇〇文を稼いだそうです。夫婦子供二人の場合、米代二〇〇文、味噌・醤油などに五〇文、子供の菓子一二〜三文などを使うと、一〜二〇〇文程度残るという具合です。しかし、毎日働ける訳ではなく、節句や病気などを考えるとギリギリの生活でした。店賃(家賃)は月一一〇〇文ほどだったので、借金をためてしまう人もいるわけです。
江戸の職人を代表する鳶や大工は始終身体を使うので、一度に多くを食べず間食をよくとったそうです。そこで、江戸後期には外食産業が発達し、一つの町に一二軒ほどの寿司屋と、その半数の蕎麦屋ができました。「蒸し」という一番安い蕎麦が一杯六〜七文、一八(八文)ぶっかけ、二八蕎麦(一六文)から御膳などといって一〇〇文するものもありました。寿司は高いものではひとつ三三〇文から五五〇文するようなものもあったと言われています。ほかに、旅篭の宿賃一五〇文、寄席の木戸銭四八文、花三文。
◆結局、一文銭で何が買えたのか◆
四文銭ができた頃のエピソードして、これまで串に五つついていた団子が四つになったとか、子供が小使いをねだるとき「ちゃん一文おくれ」から「四文おくれ」と言うようにになったという話が伝えられています。大道芸などは一文もやればよかったし、一文菓子という言葉もあった。子ども相手の菓子は大きさや質を落としても値段を変えなかった。一文銭でもこの程度には使えました。
前田@弘(千葉県立小金高校)
 しじみも一升(一.八リットル)六文と変わりませんでした。古いところで一七〇〇年に、地震のあと一串三文で田楽を売っていたという記録がありますが、日常的なできごとではありません。のちに、一分(四枚で一両)・二朱(八枚で一両)の金銀貨が成立します。
 一文で買えたものは 『三貨図彙』という相場の一覧表によると、幕末には銭一貫銀九匁前後です。町中では、銭相場が毎日変動するというのもやっかいなことから、銀一匁が銭一〇八文と決められていたようです。銭が安値になっていくのは、銅貨の外に真鍮や鉄の寛永通宝が出始めたこと。
▼北方領土問題なぜ解決しない?
「北方領土」問題とはなんですか? なぜ解決しないのですか? (愛知県中学一年生)
回答 菊地宏義
■地図帳にみる「北方領土」問題
まずあなたの持っている地図帳を見ましょう。そこには四本の国境線がひかれて、北方四島は日本領となっています。また、千島列島とカラフト南半部は白色になっていて、どこの国の領土なのかはっきりしません。なぜこうなったのでしょうか。

■「北方領土」問題の四段階
左上の地図の上の番号で、ABの千島列島と、北海道の一部であるCの歯舞・色丹は日本固有の領土であり、明治のはじめに平和的に日本・旧ロシア両国間で確認されたものでした。しかし、戦後四段階にわたって、この点があいまいにされてきたために、わかりにくい「領土問題」になってしまったのです。
〔第一段階=ソ連の占領〕
第一段階は、領土問題の発生です。ソ連は太平洋戦争末期の八月九日に対日参戦しましたが、八月十八日に日本領の千島列島の北端の占守島に上陸し、九月三日に歯舞諸島までを占領しました。終戦は八月十五日ですから、ソ連の千島領有戦争は終戦後におこなわれたのが事実です。しかしこのソ連の行為はアメリカも認め、ソ連は四六年には憲法を改正して自国領土に併合し、ロシア人を居住させたのです。日本では千島からの引揚者を中心に戦後返還運動が開始されますが、政府はアメリカ占領下でこの運動を無視します。
〔第二段階=日本政府の千島放棄〕
第二段階は、日本が「独立」するサンフランシスコ講和条約が結ばれた一九五一年です。この講和条約第二条で日本政府は千島列島の放棄を承諾します。いっぽう、沖縄等の米軍占領の継続も承諾しました。講和条約では千島列島の帰属を定めませんでしたが、占領という既成事実によって千島列島ABと歯舞・色丹南島Cはソ連領となりました。しかしこれは第二次大戦において連合国側が言明していた領土不拡大の原則に違反する行為であり、米ソともに国際道義に反する行為を行ったことになります。
〔第三段階=四島返還の登場〕
第三段階は、五四年成立の鳩山内閣の日ソ国交回復の段階です。国交回復のための領土交渉で、ソ連は「歯舞・色丹の返還」を提案しました。日本政府はサンフランシスコ条約の修正を必要とする千島列島返還は主張せず、国後・択捉は「放棄した千島列島には含まれない」という新しい主張を前面にだし、四島返還でなければ受諾しない外交方針をとりました。そして「千島ではない」四島を「北方領土」とよぶことになったのです。そこで領土交渉は決裂しましたが、両国は領土を棚上げして、五六年の日ソ国交回復となったのです。「日ソ共同宣言」 では第九条で、歯舞・色丹の引渡しに同意することが明記されています。
〔第四段階=日米安保条約と返還運動〕
つぎはその後、現在にいたるまでの段階です。六〇年にはソ連を仮想敵とした日米安保条約が改定され、ソ連は「日本から外国軍隊が撤退しない限り、歯舞・色丹は返還しない。」と声明するようになります。一方米軍占領下の沖縄では六〇年に「祖国復帰協議会」が結成され、沖縄返還運動が新たな段階を迎えました。アメリカと日本政府が一体となった弾圧をはねかえし復帰運動は国際的にも支持され、占領二七年目の七二年に日本復帰が実現しました。「北方領土」 の返還運動はこの沖縄復帰以後活発化しましたが、四島返還以外の立場を認めない上からつくられた国民運動も大きな部分をしめています。日本政府が沖縄返還の先頭にもたたず、北方や南方の「日本国有の領土」の占領終結と返還・復帰について、すじの通った態度をとってこなかったことが、いまでも世論に混乱を与えており、戦後の米ソニ大国の対応とあいまって解決を遅らせてきました。
■国境線よりも住民の視点を
ソ連邦も解体した今日、この問題も新段階にはいりました。九一年のゴルバチョフの来日はその始まりでした。ロシアでも日本でも、たくさんのアイデアが発表されてきました。日本の革新野党の「歯舞・色丹の早期返還、全千島返還」の運動も国民のなかに支持を広げています。「北方領土」に住むロシア人は「返還に絶対反対です。」といいます。返還後の生活が最大の心配なのです。でも彼らは日本に関心をもち、日本との友好を願っています。日本に自由にいきたい、日本人と一緒に企業を経営したい、働きたいと考えています。領土の帰属だけでなく、自由往来、自由交流がこの地域固有の願いであり、国境線がそれを妨害しているのです。
また、これらの地域は日本領という主張にも批判が生まれています。この地域の先住民はアイヌであり、日本人ではないからです。日本・ロシアの両方が現在少数になりつつあるアイヌ民族の声にも耳を傾け、ともに問題を解決していく姿勢が重要になってきています。
▼労働組合に入る人が減っているのはなぜ
Q、労働組合に入ると得ですか。どうして組合に入らない人がふえているのですか。(埼玉県・高校三年生)
回答 堀口博史
  ■なぜ労働者は 「労働組合に入らなくなった」のか?
資料1を見てみましょう。 
一九五〇年以後は毎年の統計ではないので注意が要りますが、労働組合(以下「労組」)の組織率は@敗戦後四九年まで急上昇、A六〇年頃までは急下降、B七〇年頃までは再び上昇し、C七五年の三四・四%以来二三年連続最低記録を更新し、九八年は二二・四%です (図1)。
私の勤務校の求人票(今年七月一日〜二八日)を調べたら、二九六社中労組があるのは五七社(一九%) でした。なぜこうなったのでしょうか。
@敗戦後、非民主的な法律は廃止され、失業者一千万人、飢餓、超インフレによる生活苦で、労組は「企業・事業所別」に急激に組織されました (四九年に組織率五五・八%)。 A単独占領した米国は日本を反共産主義「基地」とし、米国の意向を支持する政府を維持しようとしました。二・一ゼネストの中止 (四七年)、公務員ストライキ権の剥奪(四八年)、下山・三鷹・松川事件での労働運動弾圧(四九年)、労組の中心人物を職場から追放するレッドパージが行われました。五一年に「独立」を果たした日本は、日米安全保障条約の下で米国追随の政治を続けます。しかし労働運動は多くの国民の願いと結びつき、軍事基地化・破壊活動防止法・警察官職務執行法・教員の勤務評定の反対、原水爆禁止、母親運動、安保条約改定反対など日本国憲法を暮らしに根づかせました。「毎年春、多くの産業別労働組合が集まり、統一指導部による統一闘争で、賃金引き上げ中心に」 の春闘が始まったのは五五年です。
B六〇年代、政府は高度経済成長政策を進め、企業内では年功序列賃金・終身雇用制が浸透し、企業が私生活も支配しました。「右肩上がり」経済のこの時期、労資協調の労働運動でも賃金引き上げの 「成果」はありました。一方、資本側は「物価抑制のため人件費臣縮を」「生産性向上(=労働強化) は労働者の生活もよくする」と主張し、労資協調の「第二組合」をつくって「たたかう労組」 を排除し、昇進と賃金で差別しました。
C高度経済成長は物価の高騰、農村の過疎化、公害を引き起こし、七〇年代初めには革新自治体が誕生します。しかし七三年のオイルショックで「経営危機」「不況」 が叫ばれるたびに「企業あっての労働者」「賃上げ月粛」意識は強まりました。「企業とたたかう労組とは連帯しない」という労組内の対立も深まりました。会社側がリストラの方針を打ち出すと労組が退職に応じるよう「説得」したり、過労死した社員の遺族が裁判に訴えても労組は支援しないことが起こりました。組織率の連続低下は、労資一体化が強まり労組本来の姿が見えにくくなった象徴と言えます。

■「労働組合」 はなくてもあっても関係ないか?
S社(労組なし) に勤めるWさんは九八年に整理解雇になりました。しかし正社員三名をリストラしながら五名を新採用、社長の一存で決定し希望退職を募らない、会社がつくらせた従業員代表に「相談」させるが「無理だから辞めなさい」と言うだけ、など納得できません。会社「外」 の人たちに相談して、共感・支援を受けて裁判に訴え、結果、解雇は無効、現職復帰、社長の謝罪文、和解金を払うことで和解が成立しました。しかし、復帰後も職場内のいじめがあり、孤立感を深めています。担当した弁護士さんは、「職場″内″に相談できる窓口 (たたかう労組) があれば違うのですが。」 と言います。
一方、九七年にフランスの自動車メーカーで多国籍企業のルノーは大量リストラ計画を発表しました。この時、労働者は国境を越えて結びつき、他の自動車メーカー労働者も連帯してヨーロッパ規模で「ユーロ・スト」を実現しました。視野を世界に広げれば、労働運動が着実に広がり新しい段階を迎えている事例は他にもあります。エンゲルスとともに『共産党宣言』を発表したマルクスは、一八六四年の国際労働者協会(第一インターナショナル)創立宣言で「成功の一つの要素を労働者ば持ち合わせている……人数である。だが、人数は団結によって結合され、知識によって導かれる場合にだけ、ものをいう。……兄弟のきずな (筆者注‥さまざまな国の労働者の連帯) を無視するときには、彼らのばらばらな努力は共通の挫折という懲らしめをうけることは、過去の経験が示すところ」と述べましたが、今なお心に刻みたい言葉です。

■労働組合の役割と「人間らしく働き、遊び、人間らしく生きられる」社会
日本では一九八九年に労資協調の日本労働組合総連合会(連合)と、資本・政党からの独立、一致する要求での行動の統一を掲げる全国労働組合総連合(全労連)とに分かれました(資料2。両者に属さない 「全国労働組合協議会(全労協)」も)。
一方、多国籍企業化する大企業の要請の下、働く場に変化が起きています。@人件費削減のため労働者の八〇%を不安定なパート・派遣労働に変える。A労働を「成果」のみで判断し、一日一〇時間、一二時間を超えて働いても残業にしない(残業手当もない)。B過労死するような男性の働き方を放置したまま男女平等に。女性への時間外(残業)、休日労働、深夜業の規制廃止……など。それが「経済苦を動機とした自殺者が史上初めて三万人を超す(九八年)」「学費が払えず中途退学する学生が増加」「完全失業率(九九年五月) は一五〜二四歳で八一万人(九・七%)、二五〜三四歳で八七万人(五・八%)」「将来の生活に不安」など国民の生活・生命・健康を脅かしています。
「労組に入れば得」というより「平和・人権・民主主義」 の一点で連帯する労組で行動すれば、「人間らしく働き、遊び、人間らしく生きられる」社会はより早く実現できる、ということではないでしょうか。
▼円とドルの比率はなぜ毎日変わるの
Q 昔は、1ドル=360円だったのに、 いまはどうして毎日変わるようになったのですか? (東京都 中学三年生)
回答 坂本昇
■ 1、外国為替と変動のしくみ
外国との取り引きでは各国の通貨が異なりますので、支払いは為替で行うことになります。これを国内の為替と区別して外国為替といいます。図1を見てください。 
例えば、日本の企業がアメリカに自動車を輸出する場合、まず日本側が外国為替手形(円為替)を振り出して外国為替を扱う東京銀行(もと横浜正金銀行)などにそれを買ってもらいます。銀行は、アメリカの支店を通じて輸入企業に手形を呈示して、企業から代金に該当する金額を受け取るのです。実際は、各企業の主要取り引き銀行(メインバンク)と東京銀行と間の決済や、手形割引などが行われているのでやや複雑になっていますが、日本では円で、アメリカではドルで取り引きしてその間をつなぐのが外国為替であると考えてよいでしょう。
現在この外国為替の相場は、毎日しかも刻々と変動しています。それは、外国為替の需要と供給の関係で決まります。外国為替も一定の価値をもつ商品と同じですから、需要の多いものは価格が上がります。外国為替の需要と供給の関係は、直接的にはおもに次の二点を要因として変動します。
一つは、貿易によるもので、これが大きな要因です。日本の輸出が増加すると、代金分のドルを円為替に交換する量が増え、つまり円為替の需要が増えますから、円高となります。逆に、日本が輸入超過状態になれば、円をドル為替に替えて支払うことになるわけで、円安・ドル高になるのです。
二つ日の要因は、外国との資本取り引きによるものです。例えば、日本側がアメリカ企業を買いとったりアメリカの会社に投資したりする場合、日本側は多額のドルが必要ですから、円をドル為替に交換します。円を売ってドル為替を買うわけですから、この場合は円安・ドル高になります。つまり、日本からの資本流出は円安を、逆に日本への資本流入は円高をもたらすことになります。この二つの要因以外にも、急激な円高を抑えるため日本銀行が介入(円売り・ドル買い)したり、各国の金利や株価が変動することによって投機的な為替売買が行われたりすることなどによって、外国為替相場は変動しています。
■ 2、固定相場利から変動相場制へ
金と通貨を交換する金本位制は、通貨や外国為替の安定上は有効ですが、膨張する経済を十分に維持できるほど金の量はありません。各国は、第二次世界大戦以前に金による取り引きを停止してましたので(日本は一九三一年)外国為替相場は不安定でした。大戦後に、経済再建のために外国為替相場を安定させることが世界で合意され、一九四五年十二月IMF(国際通貨基金)体制が成立しました。経済的に優位にあったアメリカのドルと金とを交換することにして、ドルを国際通貨(基軸通貨) としました。そして、金一オンス(約三一グラム)を当時の平均価格の三五ドルと決め、一ドルは金で約〇・八九グラムとされて取り引きされるようになりました。
日本は、一九四九年のドッジ・ラインによって、金一オンス (=三五ドル) を一万二六〇〇円とし、一ドル=三六〇円の固定相場制となりました (図2)。 
日本は、この固定相場制のもとで高度成長を実現し、しだいに輸出を拡大していきました。一方のアメリカは、ベトナム戦争の戦費支出などによって、国際収支が悪化(対外支払超過・賢易赤字化)していきました。世界中の金保有量のうち、アメリカの保有率は一九五〇年には50%を越えていましたが、一九七〇年には15%まで落ち込みました。その結果起こったのが、一九七一年八月のドル・ショックです。ニクソン大統領が突然ドルと金との交換停止を発表したため、基軸となるドルヘの不安が高まり、外国為替相場が混乱しました。同年十二月ワシントンのスミソニアン博物館で開かれた先進一〇か国蔵相会議で調整が行われ、一ドル=三〇八円の体制(スミソニアン体制、図3)が決まりました。しかし、アメリカの貿易赤字が増加する一方で日本の貿易黒字状態が続き、ドル不信から大量のトル売りが行われたため、スミソニアン体制も維持できなくなりました。その結果、一九七三年から変動相場制に移行することになり、日々刻々外国為替相場が変動することになったのです。
■ 3、変動相場制移行以後
一九八〇年代になるとアメリカは、レーガン政権による「強いアメリカ」政策をかかげましたが、実際は、そのための核軍拡などによって軍事費が膨張し、財政赤字が増大しました。アメリカの財政をまかなう資金は日本などの黒字国からの投資で補いましたから、一時はドル高となりました。しかし、このドル高と財政赤字による経済不況によって、アメリカ企業の輸出はさらに伸び悩みました。アメリカの貿易収支は赤字を重ね、八〇年代半ばには一千億ドルを越えました。その中心が、対日赤字です(図4、アメリカの財政赤字と貿易赤字とを「双子の赤字」といいます)。 
一九八五年には、アメリカは世界最大の債務国になり日本が最大の債権国になりました。こうした問題を解決するために、同年ニューヨークのプラザホテルで五か国蔵相会議(G5)が開催され、そこで決定された 「プラザ合意」によって、円高傾向は一気に加速することになりました。当時一ドル日二四〇円前後であった為替相場が、一九八七年末には一ドル=一二〇円となり、現在の状況が始まったのです。