<キッズコーナー 歴史>

 
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▼ 江戸時代の年貢
●江戸時代の年貢は五公五民とか六公四民とかいわれたようですが、実際はどのように取りたてたのでしょう。(神奈川中学3年)

◆ 五公五民とか六公四民というのは年貢率のことで、六公四民ならば、六割が領主の取り分、残りの四割が農民の取り分ということです。農民といっても一人一人の百姓ではありません。江戸時代は村請制といって年貢は村単位で納めたので、領主取り分と村の取り分の分配比ということになります。
 太閤検地で村の生産力をつかんだ豊臣秀吉は、一五八六(天正一四)年に「年貢は百姓と相談して額を決定し、その決定が困難なときは三分の二を領主が取り、三分の一を農民がとれ」という法令を出しました。一六〇〇(慶長五)年に徳川家康が駿河国一帯に出した法令でも、年貢率は七割〜五割五分です。江戸時代はじめは年貢率は六公四民〜五公五民だったようです。こんなに年貢が重いのは、百姓は「生きぬよう死なぬよう」に支配されたからだともいわれています。ところが、最近では江戸時代の農民はそんなに悲惨ではなかったと考える人も多いのです。実際の年貢の取り方をみながら、考えていきましょう。
年貢はどのようにとられたのか
 年貢の取り方は、時期や地域、領主との関係によって違いますが、当初は検見取りという方法がとられていました。九月の稲が穂をつける頃、毎年検見役人という武士が村にやってきて、村役人の案内で稲がよく実っているかどうかを調べます。具体的には、坪刈りといって一坪分の稲を刈り、籾の量をはかったりします。この調査をもとに「免」(年貢率)が決まり、一〇〜一二月頃「年貢割付状」が届きます。これは「免定」などともよばれました。村高からさまざまな理由で耕作できなかった土地を免除分として除き、残りの土地に年貢率をかけて年貢が算出されています。田と畑にかかる年貢率は別々の場合が多く、なかには田畑の等級ごとに率が違ったり、年貢率のかけ方にはさまざまなバリエーションがありました。年貢はもちろん米で払いますが、小物成とよばれる林野や地方の特産物などの税もあり、これは貨幣(銀・銭)で支払われました。
 「年貢割付状」かくると、村役人は村独自で検地帳などをもとに年貢の割付を行います。これはあくまで村の仕事で領主は一切かかわりません。このような割付の特権を持つ村役人の不正を、平百姓が追求する村方騒動がおこり、江戸中期以降は名主(庄屋)・組頭を監察する農民の代表である百姓代が村政に参加するようになりました。割付が決まったら、百姓たちは自分が負担すべき年貢を名主の家へ運び、そこから領主が指定する郷倉へ運ばれました。これら全てが終了すると領主から村へ「年貢皆済目録」が発給されます。これで年貢納入が完結するのです。
検見から定免へ 
 検見取りは検見役人を派遣するのに費用がかかります。農民にとっても、検見が終わらなければ取り入れが出来ず、年貢率を低くして貰うために役人を丁重にもてなしたり、賄賂を送ったりと負担が大きいものでした。そこで、定免といって、過去数年間の率から推定した年貢率をあらかじめ設定するようになりました。五年か一〇年間が期限で、終わると農民側からまた願うという形式を取り、前より少し高く設定されます。しかし、洪水や日照りなどで三〇パーセント以上の被害があった場合は、一時定免を停止し、検見によって年貢量が決められました。これを「破免」といいます。あらかじめ年貢量を決めていても、農民が立ち行かなくなったときは収納しないというのは、江戸時代の武士と百姓の一種の契約関係を示していて、地租改正以後の近代的な取り立てと決定的に違います。
だんだん年貢がとれなくなる幕府
 ところで、年貢率をかけるもとになる村高とは一体何でしょうか。それは村の生産力、つまり村が作り出す富の総量を米の量に換算して示した数字です。太閤検地の強行によって全国一律の基準で領主がつかんだものです。この村高はほとんどの村では寛文〜元禄期までの検地によって定まってしまいます。未墾地の開発はこの時代までにほぼ終わり、それ以後は商品価値の高い作物を工夫して作る時代に入りました。この時代以降、村の富は増大しても村高の増加としては現れない。その点で江戸前期頃より農民の中に余裕が出来てくるわけです。ところが、これと並行して年貢率が下がってしまいます。
 八代将軍吉宗は、このような課題に取り組み、新田開発や定免法、有毛検見法などを採用しました。有毛検見は村高に関係なく実際の出来高をつかもうというもので、農民にとっては過酷な徴租法でした。このような政策を実行した神尾春央が「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と放言したことはあまりにも有名です。しかし、この放言の前提として、農民がすでに豊かになっている事を理解しておく必要があるでしょう。神尾の放言にかかわらず、幕府の一七一六(享保元)年から一八四一(天保一二)年までの年貢率は三〇〜四〇パーセントであり、四公六民から三公七民という状態になってしまいました。
 このような中で、幕府が新たに検地を行って村高をつかみ直すことは、新田以外はほとんど不可能に近い状態でした。一八四二(天保一三)年、天保の改革のとき近江国で行おうとした幕領検地は、農民の反対によって粉砕されてしまいます。このように、農民達は着実に自分たちの剰余を膨らませ、次の時代を準備していきました。だから、江戸時代の農民を悲惨だとばかり見る見方は正しいとは言えないのです。
 佐藤常雄・大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社現代新書
前田徳弘(千葉県立小金高校)