第53回全国大会 その3 その1 その2

 記念講演は辛淑玉さん。演題は「21世紀・アジアと共に生きる日本への提言」。ユーモアたっぷりの導入でドッとわかせたかと思うと、知らず知らずのうちに聞き入ってしまう話の内容と話術に会場が水をうったように静まり返るなど、魅力たっぷりだった。
 今、隣りに現実にいる“被害者”(在日外国人もその例)の痛みを知ることから歴史教育の第一歩が始まる、日本・韓国双方にいる“被害者”が“国境を越えて”加害者を処罰すること、“国境を越えて”日本・韓国双方に現実に今なおいる“被害者”を救済することを考えなければならない。「国レベル」で考えていては何も解決しない。これが「戦争未体験者」の「戦後責任」を果たすことになる。言葉だけの「おわび」を繰り返すのとは違う。共産主義・社会主義者、シンティ・ロマ(ジプシー)(=今で言えば「不法入国」外国人)、障害者、宗教者、ユダヤ人(=今で言えば金融機関)を次々に弾圧していったのはナチスのヒトラーだったが、今の日本でもそれと似たバッシングの状況が起きている。60%の人々が甘い汁を吸い、30%は抑圧され、10%は殺される社会――これが現在の日本社会にも進行中である。しかし、こうした「ファシズム社会」は今は通用しない。今の国際社会・国際経済は「ファシズム社会」を2、3年間も放置してはおかない。日本社会でもすでに「国際化」と「女性」の面では大きく変わってきている。そして、「今の社会のあり方は変だ」と思っている人が20%いる意味は非常に大きい。これが30数%を越えたら社会は大きく変わる。あとはオセロゲームと同じ原理。「権力者」や「男」を中心とした視点(=「つくる会」教科書はその典型)ではなく、「声にならなかった人(=マイノリティ)の声を拾い続ける」視点を絶えず意識することが重要だと考えさせられた。
 分科会会場は、北緯35度25分00秒、東経139度36分50秒、海抜32mにある横浜英和女学院。面積は約3ヘクタール。  1984年の校庭の発掘調査で弥生時代中期から古墳時代後期の遺跡が出てきた場所。横浜英和女学院は1880(明治13)年創立。母体はアメリカのメソジスト・プロテスタント教会で、創立者は女性宣教師のハリエット・G・ブリテン。当初は横浜山手の外国人居留地48番にあったが、1883年に山手120番に移転。白樺派の作家・有島武郎も7歳の時に入学した。・・・こうした歴史遺産は「歴史展示室」に展示されている。日中戦争真っ只中の1939年4月に、校名を「成美学園」としました。これは教育勅語の中にある「美をなす」からとられた。「戦後50年」頃から校名変更議論が起こり、1996年に現在の校名になった。暑い中だったが、冷房完備の教室でホットな議論が行われた。(文責・堀口常任委員)