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田母神・前航空幕僚長問題についての歴史家有志の見解

 アパグループというホテルチェーンが「真の近現代史観」という標題で募集した懸賞論文で、田母神俊雄・前航空幕僚長の「日本は侵略国家であったのか」という「論文」が最優秀賞に選ばれた。この「論文」の結論は、日本は侵略国家ではなかったという点にあるのだが、その論拠はきわめて杜撰で批判にも値しないものである。このような「論文」が最優秀賞に選ばれたことは、政治的な作為によるものと感じないわけにはいかない。さらに、このような「論文」の著者が航空幕僚長という地位にあり、その下で自衛隊の幹部教育が行われ、それに桜井よし子氏や「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが講師を務めていたことも明かになっており、その影響力は無視できないものがある。この懸賞論文に多数の自衛隊員を応募させたことも、このような教育の一環と見てよい。

 この問題が大きく報道されると、田母神説を支持する意見が自衛隊以外にも意外に多くみられ、ヤフーのネット調査では58%の支持があったと本人が誇っている。だとすれば、この問題の背景にはかなり深刻な事態が潜んでいると考えざるを得ない。政府や自民党内にも田母神説に半ば共感する空気があるといわれ、政府は過去の戦争についての歴史認識を明確にすることなく、田母神氏を懲戒免職ではなく定年退職とすることで幕引きをはかったのである。その意味で、戦後の歴代政権が過去の戦争責任をあいまいにしてきたことが、この問題の根底にあるといえよう。こういう状況を見ると、論文の名に値しない感想文ともいうべきものに過ぎないとはいえ、安易にこれを支持する風潮もみられるので、基本的な論点について批判を加えておくことが歴史研究者・教育者の責任であると考え、ここに私たちの見解を公表することとした。

 論点は多岐にわたっているが、大きくは次の5点に整理できるだろう。(1)19世紀後半以降日本が朝鮮半島や中国に軍を進めたのは侵略ではなく、条約に基づいた駐留である。(2)蒋介石国民党は中国に進出した日本人に大規模な暴行・惨殺を繰り返したが、その背後にはコミンテルンの工作があった。(3) 1928年の張作霖列車爆破事件や1937年の盧溝橋事件は日本が仕掛けたものでなく、中国側が仕掛けたものである。(4)日本の支配下で台湾や朝鮮は繁栄し、「大東亜戦争」はアジア・アフリカの解放につながった。(5) ハル・ノートはコミンテルンがルーズベルトに働きかけてつくらせた、日本を戦争に引きずり込むための仕掛けであった。

 田母神氏は、国民党が暴行・惨殺を繰り返したというが、日本軍こそが中国で組織的に大量殺人や焼き討ちや無差別爆撃などを行い、1千万人を超える中国人の生命を奪ったのである。日本の「満州」進出は、田母神氏がいうように国際法上「合法」とされるどころか、当時の国際連盟によって「侵略」として非難され、国際連盟の調査団も派遣されたのであった。張作霖列車爆破事件は関東軍が独自の判断で引き起こしたものであることはすでに明白となっており、それを政府が処罰しなかったために軍の暴走を許す契機ともなった。盧溝橋事件の場合は、偶発的事件として現地で停戦協定が結ばれたにもかかわらず、当時の近衛内閣が中国への派兵を拡大したため全面的な戦争になったのであって、これを中国の責任に帰すことはできない。

 田母神氏は、相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはないというが、1931年の「満州事変」における「満州」全土への進撃、盧溝橋事件以後の中国全土への攻撃、1940年のフランス領インドシナへの進出、1941年以後の太平洋地域への進撃など、いずれも相手国の了承を得ていないからこそ戦争になったのである。これらはとうてい条約に基づく「駐留」などと言えるものではない。
日本の支配下で植民地が繁栄したという主張もまったく一面的で、日本の支配下で朝鮮や台湾に鉄道が敷設され、教育が普及したことなどは事実であるが、それは日本がこれらの地の開拓によって日本自身の経済発展を図ろうとしたためであり、教育はいわゆる皇民化教育であって、日本への同化を迫るものであった。朝鮮では創氏改名によって朝鮮の人々に日本名を強制し、台湾でも朝鮮でも日本の神社への参拝が強制された。「満州国」でも朝鮮・台湾でも、こうした日本の支配に抵抗したと疑われた多数の人々が殺されたのは事実である。

 コミンテルン陰謀説は冷戦時代のアメリカでつくられたものだが、何の根拠もない。ハル・ノートが日本を戦争に引きずり込むための仕掛けであったのではなく、日本の中国侵略に対する国際的非難に対抗し、中国での権益に固執した日本自身が、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んで大戦突入の道を選んだのである。

 この戦争がアジア諸国の解放につながったというのは、よく持ち出される主張であるが、アフリカの解放にまでつながったと言ったのは、田母神氏がはじめてであろう。第2次世界大戦が結果として戦後のアジア諸民族の独立を生み出したのは事実であるが、それは日本の功績ではなく、諸民族の独立の闘いの結果である。日本が意図していたのは諸民族の独立ではなく、欧米諸国に代わってアジアの支配者となることであった。

 田母神氏は「我が国の歴史について誇りを持たなければならない」と言う。しかし、日本はあの戦争に敗北し、「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(日本国憲法前文) 新しい平和国家としての道を歩みはじめたのである。このことにこそ我々は誇りを持たなければならないのであって、戦前の歴史に誇りを持つことは「再び戦争の惨禍が起こること」に通ずる危険がある。そればかりでなく、このような見解を持つ人物が自衛隊のトップにいたことが世界に知られるならば、日本の国際的信用を失墜させ、日本への警戒心を高めるだけであって、日本にとって何のプラスをももたらさないであろう。

 11月13日付『朝日新聞』の「私の視点」欄で、志方俊之帝京大学教授(元陸将)は、この「論文」が自衛隊内の「長年の鬱屈」を示したと言い、これを解決するためには憲法を改正して自衛隊の存在を明記する以外にないと主張している。これは田母神「論文」の狙いが改憲キャンペーンの一環であることをあらわしているといってよい。自衛隊のなかにあるという「長年の鬱屈」を解決する方向がこのような形で示されたのは、イラク戦争を契機として自衛隊がいっそう肥大化し、防衛庁が防衛省に昇格し文民統制も弱まるとともに、海外派兵を恒久化して集団的自衛権を行使したい、そのために憲法を変えたいという要求が政界でも強まってきたためである。しかも、国民のなかにも格差の拡大や政治の混迷などによってやり場のない不満が高まっている。このような時期に過去の侵略を美化する言説が、こともあろうに自衛隊の最高幹部によって主張されたことには、日本の将来を誤らせるものとの強い危惧の念を抱かざるを得ない。私たちは、すべての国民の皆さんに対し、歴史の事実を学ぶことを通して、このような動きに対する厳しい監視の目を注がれるよう訴える。

2008年12月19日

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