<仲間たちの声3 声1 声2
 
●アフガン被害パンフレット[翻訳資料集]のご案内 2002/06/26
アメリカはアフガニスタンで何人の人々を殺したのか!?
 −−アメリカの無法な戦争、戦争犯罪、そして戦争レイシズム−−

 パンフレット「アメリカはアフガニスタンで何人の人々を殺したのか!?」は、空爆被害や飢餓・餓死、捕虜虐待などアメリカによるアフガニスタンに対する戦争犯罪をトータルに記録した翻訳資料集です。アフガン人の民間人犠牲者数が最低でも3千数百人に上ることを明らかにしたニューハンプシャー大学ヘロルド教授の論文の翻訳を中心に、国境なき医師団や英紙ガーディアンの記事の翻訳、署名事務局作成の資料などを収録しています。アメリカがアフガニスタンで行った戦争を告発し、さらに新たな戦争と「有事法制」などによる日本の加担・参戦に反対していくためにぜひご利用ください。

A4版約100ページ。カンパ 1冊700円+送料。
 お申し込み、お問い合わせは署名事務局まで。e-mail:stopuswar@jca.apc.org
 詳しくは次のURLまで。 http://www.jca.apc.org/stopUSwar/
                    ↑
              ここに要約があります

主な内容
T アフガニスタンへの米の空爆による被害の実態とその犠牲者
翻訳「アフガニスタンでのアメリカの空爆による民間人犠牲者に関する報告」(ヘロルド教授)他
U 戦争によって拡大する飢餓、疾病、餓死・凍死、人身売買、難民化
翻訳「がれきをつくり出すもの−−アメリカの爆撃とアフガン難民の危機」(ヘロルド教授)他
V 捕虜に対する虐殺と残虐行為
翻訳「アフガニスタン北部のシェバルガン刑務所の状況に関する報告」(人権のための医師団)他
W 新型兵器の実験場と「非人道」兵器
翻訳「法を逸脱し、倫理にもとる(クラスター爆弾攻撃についての報告)(ヘロルド教授)他
X 付録
「アフガニスタン被害報道日誌」抜粋(署名事務局)他
参考
・ http://www.cursor.org/stories/civilian_deaths.htm (ヘロルド教授の論文があるウェブサイト)
・ http://orbit.unh.edu/econ/facdetail.cfm?Last_Name=Herold (ヘロルド教授を紹介するウェブサイト)
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局
(旧アメリカの「報復戦争」と日本の参戦に反対する署名事務局)
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[ヘロルド教授からのメッセージ]

親愛なる友人の皆さんへ
 お返事が遅れ申し訳ありません。講演ツアーのため不在でした。
 心のこもったお手紙ありがとう。わたしの研究を翻訳する時間をとってくださったことに深く感謝します。
わたしは近日中にテレビ朝日のインタビューを受ける予定です。
 パンフレットを作成するために、わたしのあらゆる情報、記事を利用されることを喜んで許諾いたします。アフガニスタンに関するわたしの全著作をみつけるには以下のサイトが最適です
http://www.cursor.org/stories/civilian_deaths.htm
 あいにく小論(報告)の数字は少し古いものです。しかし数字の見直しは行っており、最新のデータは私の大学のウェブサイト・データベースでみることができます。
 http://pubpages.unh.edu/~mwherold .
 あなたの英語を気になさらないでください。申し分なく、十分によくわかります。
(私はあなたへの返事を日本語で書き出すことさえ全くできないのですから!)

 心をこめて    2002年4月9日
 マークW ヘロルド  ニューハンプシャー大学
● 「つくる会」が愛媛県の教科書採択で10万署名運動 2002/06/25
「つくる会」は6月初旬に以下のような手紙を署名用紙を同封して全会員に送りました。
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 会員各位       平成14年6月吉日 新しい歴史教科書をつくる会
全国から10万の支援署名を愛媛に!
 会員の皆様には日頃のご支援心より感謝申し上げます。/今、愛媛県では、教科書採択をめぐって重大な事態が発生しています。/昨年の教科書採択において、愛媛県教育委員会は『新しい歴史教科書』の採択を決定いたしました。/しかし、この採択に対して反対勢力は、地元紙の「愛媛新聞」に非常識な意見広告を掲載して昨年の採択撤回を求めるなど、『新しい歴史教科書』に対して攻勢を強めています。/署名趣意書にある通り、反対勢力の真のねらいは、来年4月開校予定の県立中高一貫校の採択において、『新しい歴史教科書』の採択を阻止することにあるのは明らかです。/そこで、愛媛県の有志が適正かつ公正な採択を求めて地元で20万人の署名を集めることを決定し、当会も県外署名10万人をめざして全面的に協力することにいたしました。その趣旨は、教科書採択を「県政最大の課題」と位置づけている加戸知事や教育改革を推進する愛媛県教委に対し、外部の不当な圧力に屈せず、公正な教科書採択をしていただけるようお願いするというものです。ぜひ、賛同のご署名を宜しくお願い申し上げます。/ *この署名運動と並行して愛媛県にて「日韓親善 講演会」が6/22に開催されます。仔細は裏面を参照ください。/ 記 /用紙不足の場合は恐縮ですがコピー願います。/署名簿は同封の返信用封筒に入れご送付ください。 /第一回集約日 6月18日/第二回集約日 7月18日/ *本部事務局にて集計して一括して愛媛の事務局宛送ります。
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●6月22日の「日韓親善 講演会」というのは、呉善花(「真の日韓親善のために」)と藤岡信勝(「新しい歴史教科書は日韓関係をどう書いているか」)の両氏を講師に、愛媛県教科書改善連絡協議会と新しい歴史教科書をつくる会愛媛県支部が共催するものです。呉氏は、「つくる会」と常に共同してきた作家で、日本人に反韓国感情を煽る著作を多く出版しています。藤岡氏の反韓国言動はあらためて紹介するまでもないことですが、この名うての反韓国の人物が「日韓親善」と題して講演するのは、親善ではなく、日韓の友好に水をさし反韓国感情を煽り、日韓の市民の間に不信感を植え付ける目的以外の何ものでもありません。
 この署名を取り組んでいるのは、「愛媛県教育委員会の教科書採択に関する毅然とした姿勢を支持する会」を名乗る団体で、「教科書採択に関する愛媛県教育委員会の毅然とした姿勢を支持します」と題した署名用紙をつくって活動しています。この会は、日本会議愛媛県本部と「つくる会」愛媛県支部が中心になってつくったものですが、日本会議県本部長と「つくる会」県支部長は同じ長曽我部延昭氏であり、愛媛では両者は一身同体です。署名用紙には、昨年の教科書採択について「一部外国勢力や一部マスコミと結んだ共産党支援者及び過激派の非合法行動も含めた理不尽な活動は採択権を持つ全国の教育委員への不当な圧力となって、正常な採択が行われなかった」「このような国内状況の中にあって、全国でも東京都とならび本来の職務を遂行したのが愛媛県教育委員会です。私たちは、暴力や不当な圧力に屈せず、法律に基づいて、正しく学習指導要領の目標に照らして採択するという毅然とした姿勢を貫かれた同委員会の良識を高く評価するとともに強く支持します。/また、この決定に対する加戸守行知事の勇気ある発言にも賛同の意を表明します」「今夏、愛媛県においては、来年度開校される県立中高一貫校の教科書採択が県教育委員会によって行われます。/愛媛県教育委員会におかれましては、今日までの毅然とした姿勢を貫かれ、適正かつ公正な採択を行っていただきますようお願いします」などと書いています。
●これにいち早く飛びついて、5月28日に「愛媛の仲間を応援しましょう!―署名のお願いー」を出したのが「鎌倉の教育を良くする会」です。この会は、「教科書ネット」の「ニュース」(NO.23)に報告が載っている「鎌倉ネット」の講演会を「つくる会」と共同して妨害し、「鎌倉ネット」の講演会当日は、田中英道・藤岡信勝講演会を「つくる会」神奈川県支部と共催した団体です。代表の山内裕子氏は、昨年12月市議会で市長が教育委員に推挙した人です(市民運動が反対したために断念)。また、事務局の連絡先の佐々治一郎氏は「つくる会」のメンバーです(「神社新報」02・4・15では佐々治氏がこの会の会長になっている)。この呼びかけ文には、「N.B1 採択は7月末から8月上旬にかけて行われる予定です。2 本年は検定を通った高等学校用歴史教科書の採択も行われます。これに対しても皆様の応援をお願いします」と書かれています。
 また、「自由主義史観」研究会は会報『歴史と教育』(2002年5月号)の巻頭に「緊急アピール」「『新しい歴史教科書』を採択した愛媛県に全国の左翼が集中攻撃」「加戸知事と県教委を支援する声を届けよう!」を掲載しています。県立中高一貫校で「『新しい歴史教科書』が採択されれば、健常者を対象とした全国で初めての公立校での採用となり、3年後の採択戦で愛媛県内の他の公立校の採択にも大きな影響を与えることが予想されます。それは全国区にも波及するでしょう」と主張し、署名の取り組みを呼びかけています。
 すでに会員の皆さんには何回か紹介し、支援をお願いしたように、愛媛県では、障害児学校への「つくる会」教科書採択に抗議する市民運動が粘り強く行われていまが(詳しくは「議案書」3ページ参照)、こうした動きは、それに対抗するためであると共に、県立中高一貫校での「つくる会」教科書の採択と『最新日本史』の採択活動を目的にしたものです。加戸知事は5月に愛媛県西条市での講演で「教科書問題は県政最大の課題」と発言しました。地元紙は、「つくる会」教科書や『最新日本史』「推進派の“援軍”になっているのが加戸知事の言動。以前から扶桑社版教科書への強い思いを明言していたが、5月の演説で、昨年の採択を評価した上で、歴史教科書採択について、『外国の批判で取り下げるようでは、主権国家と言えない』などと発言した」(「愛媛新聞」02.6.10)と報じています。長曽我部支部長は「『今年は一貫校で扶桑社、県立高校で明成社の歴史教科書を推進したい』と言明。特に一貫校に関しては、昨年の採択に携わった県教育委員5人の内、4人が残っていることから『わずか一年で異なる答えが出るとは考えにくい』と楽観的な見通しさえ示す」。さらに長曽我部氏は「知事は旧文部省出身で、愛媛で一番教育問題を熟知している人物」(「愛媛新聞」同)と、知事を擁護し応援する県内20万署名をはじめたということです。
「つくる会」は、中高一貫校で採択させることができれば、公立中学校ではじめての採択になり、3年後の愛媛県内の採択地区での採択の可能性が大きくなる、全国的にも波及効果が大きいとみて、このような全国的な取り組みをはじめたわけです。また、こうした全国的な取り組みを通じて、昨年の「惨敗」による組織の沈滞を一掃し、「リベンジ」態勢を作り上げようと目論んでいるようです。署名の呼びかけ文の最後には「会員拡大にご協力を」という文書がついています。そして、鎌倉で「つくる会」系組織がいち早く動いたのは次のような意図によるものと推測されます。3年後の採択で、神奈川県内では鎌倉市が「一番あぶない」といわれていますが、「つくる会」はそれを万全のものとするために、山内裕子氏を教育委員に送り込もうとしましたが、市民運動の反対で阻まれました。さらに、3年後の採択を許さないために「鎌倉ネット」がつくられたことに危機感を覚え、「鎌倉ネット」の集会を妨害し、愛媛の「つくる会」・日本会議と加戸知事を支援して、中高一貫校で採択させれば3年後の鎌倉での採択がスムーズにいく、という計略だと思われます。「鎌倉の教育を良くする会」は、6月16日に鎌倉市内で講演会を企画していますが、講演の題名は「日教組のイデオロギー支配にどう立ち向うかー『日教組』という名の十字架―」で、講師は、元神奈川県教組委員長の小林正氏です。小林氏は、89年に社会党から参議院議員に当選し、その後、新進党、自由党と渡り歩いて、98年の参院選自由党比例区で落選、現在、自由党神奈川県総支部連合会副会長、自主憲法期成議員同盟・国民会議理事という右派に転向した人物です。「つくる会」は愛媛県立中高一貫校で採択をとることが、「リベンジ」の第一歩になると位置づけて、「愛媛問題対策本部」をつくり、藤岡信勝副会長が本部長になっています。
●愛媛で教科書問題を取り組んできた市民たちは、加戸知事、県教委、「つくる会」県
支部、日本会議県本部を相手にここまで、粘り強く奮闘してきました。ところが、前
記のように、今度は、「つくる会」や日本会議の全国組織を相手にしたたたかいを挑
まれることになったのです。愛媛の市民運動の中心で頑張ってきた「教科書ネット」会員からは、次のようなmailがきています。
「右派勢力は、全面展開して「つくる会」教科書の採択のために愛媛にその力を運動を集中してきています。愛媛では、既に1年余り走りつづけて息が上がってハアハア・・・とあがいています。現在、全国のみなさんへの具体的な支援要請の内容を相談しています。その時は改めて支援のお願いをいたします。」愛媛の問題は、一つの県の問題ではなくなりました。全国的な影響を考えたと
き、私たちも、これを全国的な課題として位置づけて活動する必要があると思います。そこで、全国の会員の皆さんに次の3点を呼びかけます。
1.愛媛県加戸守行知事と県教育委員会宛に、中高一貫校で「つくる会」教科書を採択しないように、手紙、Faxなどを送ってください。
*加戸知事のFAX番号は総務課秘書課  Fax:089-947-9813
*中高一貫校、高校の採択は愛媛県教育委員会高校教育課が担当 Fax:089-947-4365
*手紙を送る場合の住所は  〒790-0001 松山市一番町4-4-2
 愛媛県知事 加戸 守行 及び 愛媛県教育委員会 高校教育課
*「知事への提言」のHP http://www.pref.ehime.jp/governor/governor_teigen.html
*愛媛県庁のHP http://www.pref.ehime.jp/  知事発言や愛媛県教委のコーナー有り。
*知事のメールアドレス  chijimail@pref.ehime.jp
*愛媛県教育委員会高校教育課のメールアドレス koukoukyouik@pref.ehime.jp
2.愛媛の「新聞意見広告」のカンパにご協力ください。
   郵便払込口座 01630-6-9861 口座名義「意見広告ネット」 
3.愛媛の裁判闘争への賛同支援カンパ(1口1000円)にご協力ください。
   郵便払込口座 01610-4-31943 口座名義「教科書裁判を支える会」 
●大変便利な、充実した本が出ました。十菱駿武・菊池 実『しらべる戦争遺跡の事典』(柏書房、421頁、3800円+税) 2002/06/23
戦跡考古学がおもしろい!
教科書に書かれない
戦争のリアルが立ち上がる
中学から大学まで幅広く使える
新しい平和学習ツール

<目次>
1部 戦争遺跡 調査・保存・学習の方法
  1 近代遺跡としての戦争遺跡
  2 戦争遺跡と文化財
  3 遺構と遺物の調査法
  4 史資料の調査方法
  5 聞き取り調査の方法
  6 戦争遺跡の保存方法
  7 産業考古学と戦争遺跡
  8 戦争遺跡をして何を語らせるか
  9 近代史研究・歴史教育と戦争遺跡
 10 沖縄における平和学習の意義
 11 建造物と戦争遺跡保存

2部 戦争遺跡案内
 国内編(以下大幅に省略しますが…)
 ・ 北海道エリア(北海道の戦争遺跡、勇払鵡川海岸の防衛陣地、根室半島のトーチカ群、函館要塞)
 ・ 東北エリア(6ヶ所)
 ・ 関東エリア(24ヶ所、例えば、陸軍岩鼻火薬製造所、陸軍軍医学校、調布飛行場、浅川地下壕など)
 ・ 中部エリア(8ヶ所、松代大本営など)
 ・ 近畿エリア(7ヶ所、高槻地下工場など)
 ・ 中四国エリア(11ヶ所、原爆ドーム、大久野島など)
 ・ 九州エリア(9ヶ所)
 ・ 沖縄エリア(9ヶ所)

 海外編
 東寧要塞、虎頭要塞、泰緬鉄道、コレヒドール要塞、七三一部隊など
 戦争遺物

3部 調査・研究のための情報データベース
 史料所蔵機関
 代表的な平和資料館・戦争資料館一覧
 研究・運動ネットワーク
 おもな戦争遺跡保存運動団体一覧
 文献目録 年表
●浪本勝年氏(立正大学教授、教育法・教育政策)著「高校教科書の採択権は現場教師にある−教育委員会の本来の役割はなにか−」  (2002.6.20)
発 行 :新しい教科書と教育を考える市民ネットワークえひめ
連絡先 :〒794−0026 今治市別宮町7−3−10 おもしろ共和国
    :TEL/FAX 0898−23−5808(高井)

 新しい教育課程が学年進行で施行されることに伴い、2003年4月から高等学校で使用する新しい検定済教科書の採択作業が現在、進行中です。

 教科書採択については、昨年、新しい歴史教科書をつくる会(以下、「つくる会」という。)主導の中学校歴史教科書『新しい歴史教科書』(扶桑社)をめぐる問題が、特に注目を集めました。今年は、この「つくる会」教科書(採択占有率0.039%)の高校版ともいうべき『最新日本史』(明成社)が検定に合格したことから、高校の採択が注目されています。
 これまで、高校の教科書は、高校教師の意向によって採択されてきました。ところが、今年に入ってから、文部科学省やそれに追従する教育委員会は、高校教科書の採択権は、教育委員会にある、と急に強調し始めました。このねらいが、現場教師の意向を無視し、『最新日本史』(明成社)を採択する点にあることは、明白です。 
 愛媛県教育委員会は、東京都教育委員会とともに昨年、知事の指示により「つくる会」教科書を理不尽な暴挙により、ろう学校・養護学校用として採択しました。

 文部科学省は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下、地教行法という。)23条6号を根拠に、教科書採択権は教育委員会にある、と主張しています。しかし、これは正しい法解釈ではありません。なぜならば、日本国憲法・教育基本法を無視して、いきなり地教行法を持ち出す行政お得意の「勝手解釈」ともいうべきものだからです。
 教育行政の在り方を考える際には、最高裁判所大法廷の学力テスト裁判判決(1976年5月21日)が、次のように判示していることを念頭におかなければなりません。
 「一般に教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教育基本法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払われなければならないというべきである。」

 教育基本法10条は、教育行政の在り方について、教育の外的条件整備をその本質とし、教育内容への権力的介入を禁じています。したがって、これを教科書採択に関して言うならば、教師・学校を主体とする採択が行われるよう展示会開催等の条件整備をすることこそが教育委員会の基本的な仕事であって、教師に代わって教育委員会が教科書を選ぶことなどは、論外のことと言わなければなりません。
 百歩ゆずって、教育委員会・校長に教科書採択権があるという場合にも、それは、高校の現場教師が採択した教科書を外部に発表するという「対外的表示権」を意味しているのであって、現場教師の実質的な採択権は保障されている、と解釈するのが、教育条理解釈です。ちょうど、文部科学大臣に教科書検定権があるといっても、文部科学大臣自身が実際にすべての教科書を手にして検定をしているのではないのと同様です。

●イスラエル人(イヤル・ハレウベニさん)の証言「私たちは、なぜシャロンの戦争 に反対するのか」の記録(2002/5/19)

質疑応答の中に「国を背負わせるような質問」(「1948年のイスラエルの行為について、どう考えているのですか?」「アラファトが解放後ジェニンに行かなかったのには訳があるのですか?」など)が出され、主催者側から「証言者の活動について理解を示してほしい。彼らの活動は、最初は同胞のイスラエル人からツバを吐きかけられたりしながら続けてきたのだから」と指摘されることもありました。そのため「応答」としての答えにならなかった点もあります。築地本願寺の一室でやるというのも、なかなかユニークでした。
 私にとっては、イスラエルでの男女とも徴兵義務があること、今回のようなイスラエルのパレスチナ不法占領地に対する「国家テロ」に対して「軍務拒否」している人がすでに1000人以上もいることなどが、印象に残りました。

<以下、記録メモ>
l イヤルさんは、パレスチナ自治区でのイスラエル占領地での軍務を拒否しているイスラエル人新聞記者。
l 「イエシュ・グブウル」(「限界がある」)
l 1967年からイスラエルは350万人いるパレスチナ自治区の占領を続けている。イスラエルの占領政策は過酷・冷酷なもの。
l 仕事場に着くために何回もイスラエル兵に検問されるパレスチナ人。屈辱的な言葉を浴びながら。妊婦を病院に生かせず、死んでしまう赤ん坊もたくさんいる。
l パレスチナ自治区はかつて小麦を作っていたところ。入植地と入植地を結ぶ土地をさらに取り上げる形でイスラエルは道路を新設する。アメリカもこれについては反対をしている。それをごまかすため、名前にトリックをしてつけ、新たな入植地を増やしている。
l パレスチナに新しい病院を作る際、イスラエルの許可を得なければならない。
l 水が得られないことも起きている。下水施設を整備することもできない状況も。
l 家屋破壊が続いている。最近、イスラエルは難民キャンプへの食糧・医療品を停止している。
l 占領に加担することを拒否している。イスラエル兵にパンフを配布して喚起を促している。「良心的な人は、家を壊さない、女性や子どもを殺さない。」と。
l イスラエル国民、男は18〜21歳、女は18〜20歳が兵役期間。しかし、軍隊の階級アップを目指して男などは兵隊を続けることも多い。小さい頃から「兵隊になるのは当たり前」という雰囲気がある。高校生になると、部隊からのスカウト勧誘が行われる。軍隊で知り合った人が長い友人になることは多い。
l 日常的に軍隊用語が使われる。
l イスラエル政治家のほとんどがエリート軍隊出身。シャロンは、秘密部隊を作って暗躍してきた人物。1950年代のキビヤ村40軒の家が(人がいるまま)爆破した事件にも関与。
l イスラエルには国防軍があるのではなく、国防軍の中にイスラエルがあるとジョークされるほど。
l 2000年秋の第2次インティファーダ以降、戦争犯罪は日常的に起こっている。
l 「イエシュ・グブウル」は、軍国主義的なイスラエルから、その要素を少しでも少なくしていこうとして活動している。1982年のレバノン戦争中に発足。168人が拒否し、これを支援する目的で始まった。レバノン戦争は、それまでと違って、イスラエルが「自ら選択した戦争」だった。これを拒否することから始まった。1970年代にも兵役拒否をした詩人はいたが。全員が絶対的平和主義ではない。「兵役を最初から拒否している」のとは違う。45日間、45歳まで兵役につくことが予備役として義務づけられている。「兵士」である前に「市民」である。領土的な限界がイスラエルにはある、という意味も込められている。イスラエルが完全にレバノンから撤退したのは2000年だったが、予備役兵たちのボイコットを恐れたイスラエル政府の意図が感じられる。

l 2000年秋の第2次インティファーダ以降、兵役を拒否し投獄された人は、120人に増えてきている。この3月にイスラエル軍が侵攻を強めたとき、一気に40人以上が投獄されたことも。これはレバノン戦争のときにもなかった。最初の人はノーム・カズルだった。この青年の父親は、レバノン戦争での拒否者であった。拒否者の第2世代。上流階級の中からも会の仲間に加わってきている。すべての大学の中にも会の趣旨に賛同している人が増えてきている。
l 1979年に初めて徴兵。テルアビブの非実戦部隊だったが、イスラエル軍の行動に批判的だった。1987年の第1次インティファーダ以降、「抵抗者の手足の骨を折れ」という命令を出すようになってから、会への活動を主体的にする必要を感じた。1985年から所属部隊が変わった。占領地での仕事になった。占領地での兵役を拒否した。1988年の配属命令はパレスチナ人が収監されているメギド刑務所だった。「行政拘留」の場。捕まえられた人の罪状が告げられず、裁判もなく、いつ釈放されるかも分からないやり方。「イスラエルに内通しない」とだけの理由でつかまることも。当時で100人。今は700人以上にのぼっている。ここでの勤務に拒否して2週間軍事刑務所に入れられることに。その後も占領地での新任務を拒否し、その部隊からはじきだされることに。その結果、国内の任務につくことになり、今にいたっている。
l イスラエル兵は「投獄される」ことに不安を募らせる。投獄経験のある人と会話をし、いろいろな情報を交換する。24時間相談ホットラインも開き、直接具体的にこたえる。予備役兵の通告があって入隊までに60日間がある。その間に、この部隊の仕事をなぜ拒否したいのかを上官に告げる。「選択的兵役拒否」をサポートしている。実際に投獄に至る人はそれほど多くはない。
l 中には、「診断書」をもらって兵役拒否する人もいる。
l 懲罰の例(28日間の投獄、投獄中の生活保障・給与はもらえない、獄中での生活、面会できるかどうか、獄中内での「友人」紹介など)をパンフレットで紹介。経済的に困難な希望兵士には、会が支援。軍事刑務所周辺にデモ行進して激励もする。投獄された兵士の待遇は、それほどひどくはない。講演会を開くことも。イスラエルの新聞に「政府がやっている戦争は戦争犯罪だ」と広告している。
l イスラエル国内には、小規模だが平和団体がたくさんある。「ターユシュ(共存)」もその1つ。パレスチナ系イスラエル人たちの参加も多く、食糧を占領地に届ける、献血して輸血のアシストをするなどをしている。ヨルダン川西岸ヘブロンの南の洞窟で生活する人々への支援活動もしている。イスラエル人入植者や軍は、こうした人たちを追い出したいと考えている。飲み水を使えなくする、イスラエル軍の軍用地にしようとするなどして。このやり方は、今は一時凍結されているが、日常的な圧迫を続けている。
l 「ニュープロパーイ」は兵役につくこと自体を拒否している人たちをサポートしようとしている。「ピースナウ」は「占領地から撤退を」6万人集会を成功させた。
l 3,4年前、西岸地区のラマラへ行ってジャズを聞きに行くこともできた。今は戦争状態。
l 東エルサレムもパレスチナ側に返還すべきだ。私はエルサレムに住んでいるが、そこでの世論もそうした雰囲気である。現実にそこへ行こうとするイスラエル人はほとんどいない。多くのイスラエル人は、関係改善するために「占領地における入植地からの撤退」を必要なものだと感じてきている。しかし、両国の指導部はそうした市民の空気を理解して交渉する勇気を持ち合わせていない。
質疑応答
l 女性の兵役は本当に2年間? 男性より短いのはなぜ?
――1987年のときは、3度くらい同じ理由で繰り返した場合だった。第2次インティファーダの場合、1,2週間投獄、再度で合計28日間。以前より緩やかになっている。それだけ拒否の人たちがいるということだろう。軍隊に確固たる基準はないようだ。
l 「唯一の女性兵役拒否」とあった。女性には少ない?
――「会が知りうる限り」の意味。実際はもっといるかもしれない。彼女は、地理を教える先生として徴兵された。パレスチナの地を壊して作った学校への赴任を言い渡された。自分の適性に合わないとの理由で拒否したところ、28日間投獄された。女性の兵士はあまり占領地勤務にならないため。
l イスラエルの「固有の地」と主張できる根拠は?
――エジプトとの間の国境線は1968年以前のもの。タバの領有をめぐる争いはエジプトに返還することで合意。南部レバノンは国連の合意に基づくもの。
l 「兵役・予備役の免除」について。18歳で拒否して免除になることもあるのか、何回か繰り返すと、という規定になっているのか?
――イスラエルの中の、超正統派宗教人、医師の診断書、不適格の診断を受けた人、
l 現地の人たちの反応は?
――小さい団体ではあるが、ギリシアの人との共同行動もしている。イスラエルでの平和運動は、毎日首相府の近辺で起きている。毎土曜日に集中的に集会が開かれている。「黒衣の女たち」のデモは毎金曜日。
――現在1000人以上が会の署名をしているが、実際は現状の通り。まだ社会的な大きな力にはなっていないかもしれないが、イスラエルは占領地をどうするつもりなのかがクローズアップされてくる。だから戦争終結につながる活動には間違いない。
l 現役兵より予備役兵での補充を考えているのか?
――
l 1948年の400の村を壊してつくり始めたのがイスラエルではないのか? 
1948年の歴史の事実をどう受け止めているのか?
――ナチの虐殺に付け加えて、その後のイスラエル人のあり方を問う人もいる。中には「あれだけの悲劇を受けたのだから、何をしても許される」と考える人もいないこともないが。※会としてはそのことを無視するつもりはないが、今は「1967年の問題」から始めないと一歩も進んでいかない。そのため、それを優先して考えている。
l 刑務所内での扱いは悪くないようだが、出所してからの社会的な扱いは?
――学校の中にもハイテク部門の中にもいて働いている。珍しくなくなってきているので、不利益は生じていない。
l 「イスラエルの都合」が前面に出てきていないか?
――
l アラファト議長解放後、ジェニンに行かなかったことをどう見るか?
――本人でないとわからない。
l キブツ
――これだけが特別なわけではない。イスラエル世論の一般的なもの。キブツにも主張はいろいろで、人口比で数%にすぎない。
l 会の運動に対する政府からの圧力はないのか?
――
l ブッシュにならってシャロンが西岸地区に侵攻したが?
――ジェニンで何があったかは正確に分かっていない。地震後の神戸と同じ状況である。食糧・医療も送れない状況であった。どうなるか。
l 暴力主義的世論の空気がある中で、この会の活動をどう位置づけているか?
――
l 日本政府と日本の人々に期待することは?
――世界中の人たちに、持っているあらゆる手段を使って和平を働きかけて欲しい。
l 市民レベルでは領土問題は理解が進んでいるようだが、なぜ政治家レベルではどうして?
――リクード、労働党、どちらも主張に大きな違いはない。「平和のために放棄しなければならない」ことは皆わかっている。しかし、できていないのが現実。将来的には期待しているが。政府と世論のギャップはどこにも存在していること。
l 拒否者の社会復帰後の不利益は全くないのか?
――
l 「ウルトラオーソドックス」が兵役免除されていることへの矛盾は?
――ホロコーストで犠牲になった人の子孫に多い。建国後、神学校を新たにつくるきっかけをつくった。3万人くらいの人がこの層の人たちで、兵役についていない。特権を受けていることに対する批判はあるが、本質的なことを言えば、その人個人が良心的兵役拒否に基づいて拒否することが大切だろう。

●「有事関連三法案に反対する学者・研究者共同アピール」賛同を緊急大募集!(2002/5/22)
 以下の共同アピール運動が始まりました。各個人・団体が可能な限りでこの運動に協力していただけることを心よりお願い申し上げます。
 なお、賛同していただける方が、呼びかけ人が所属している団体のメンバーの場合は、各団体で賛同の集約がされますので、各団体の支持に従い、そちらの方へご賛同の意向やカンパ等をよろしくおねがいします。
 また、このアピール運動は、呼びかけ人が所属している団体のメンバーの方以外の学者・研究者の方々で賛同していただける方、普及をしていただける方、カンパ等をしていただける方の多大なご協力を必要とします。賛同していただける方は、
ishizaki@asia-u.ac.jp
までご氏名とお所属を、ご一報いただければ幸いです。またカンパをしていただける方は、
郵便口座:「共同アピール」:00100−9−82342まで。
*なお、上記のアドレスは、この運動全体の賛同者を集約する「有事法制三法案に反対する学者研究者の共同アピール運動全国事務局」の石埼学のアドレスです。賛同の仕方等が不明な場合にもご活用ください。石埼が、責任をもって集約いたします。
なお、賛同の集約の第一次締め切りは、6月3日となっております。くれぐれもご理解・ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

 
  有事関連三法案に反対する学者・研究者共同アピール  

 第154国会に、有事関連三法案が上程され、現在衆議院において審議中である。いわゆる武力攻撃事態法案、自衛隊法改正案、安全保障会議設置法改正案の三法案である。私たちは、この法案の内容に重大な危惧を覚える。もし、この法案が国会を通るようなことがあれば、日本の安全を守るために役立つどころか、逆に、世界とくにアジア・太平洋地域と日本の平和に大きな脅威をもたらすことは間違いない。そこで、私たち学問研究に携わるものが、自然科学、社会、人文科学の枠を超えてつどい、三法案に反対の意思を表明し、かつ、この法案を阻止するためにはどんな行動が必要かを広く市民の皆さんにアピールすることにした。

1 私たちは、有事関連三法案に、以下の諸点から反対する。 
 (1)これら三法案を提出する理由として、小泉首相は、日本が万一武力攻撃を受けた事態に備えて対処する法制を整備しておくためと述べている。しかし私たちがまず指摘をしなければならないことは、この法案は決して政府のいうような「攻められたときに」いかに対処するかを定めたものではなく、かえって、日本がアメリカに追随しアメリカの行うグローバル秩序維持のための軍事行動を後方支援するために国民を動員することをめざした法律であるという点である。
 なぜなら、武力攻撃事態法案は、「武力攻撃事態」の定義(武力攻撃事態法案2条、以下注記しないときは同)にあるように、日本に対する武力攻撃が発生したりその「おそれ」のある事態のみでなく、武力攻撃が「予測されるに至った」事態をも「武力攻撃事態」に含め、法を発動するとしている。そのうえで、政府は、周辺事態法によりアジア・太平洋地域で展開される米軍の軍事行動に日本が後方支援に加わった場合すなわち「周辺事態」は、「武力攻撃事態」に含まれると答弁している。この二つが組み合わされる結果、周辺事態法等によって米軍の戦闘作戦行動に対して日本が後方支援を開始すると、時を移さず「武力攻撃が予測されるに至った事態」が生じたと判断されてこの法が発動され、地方自治体や民間の動員がなされることにな
る。
 日本がどこかの国から大規模な武力攻撃を受けるおそれは、政府も再三認めるように、ほとんどないが、米軍がイラクや朝鮮、台湾海峡での紛争に軍事行動を起こし、それを日本が後方支援する事態は、近い将来極めてありうると考えねばならない。こうした事態に地方自治体や民間を動員することこそ、この法案の最大のねらいであるということができる。
 このように法案は、日本に対する万一の「武力攻撃」に備えるどころか、逆に世界の戦争を拡大し、ひいては日本への「武力攻撃」を招く危険性をもつくりだすものである。
 (2)第二に指摘しなければならない点は、法案が「武力攻撃事態」の認定、さらには武力攻撃事態に際しての「対処基本方針」の策定を、国会の審議を経ずに、事実上内閣総理大臣と安全保障会議に参加する少数の閣僚にゆだねている点である。対処基本方針は、閣議決定後「直ちに」国会の承認を受けなければならないとしている(法案9条第6項)が、対処措置は国会の承認なしに開始できる仕組みとなっている。
 日本の戦争状態への突入の可否や国民の動員態勢を決める重大な決定を主権者の代表たる国会の審議抜きに、ごく少数の閣僚で実質的に決定するような手続きが、民主主義の根本的な蹂躙であることはいうまでもない。
 (3)第三に指摘しなければならないのは、法案が、こうした「武力攻撃事態」に国のすべての行政機関や地方自治体や民間を強制的に動員する仕組みを作っている点
である。
 法案は、武力攻撃事態に際して、地方自治体や「指定公共機関」が国と協力して、事態への対処に関し「必要な措置を実施する責務」を規定している(法案5条、6条)。ここで法案が言う「指定公共機関」とは、日本赤十字社や日本放送協会のように法案が名指ししているもののみでなく、マスコミや電気、ガス、輸送にかかわる民間の機関を戦争協力に動員するために広く「公共機関」として指定するものである。そのうえで、内閣総理大臣は、対処基本方針に沿って地方自治体や民間に対処措置の実施を求めるため「総合調整」を行い、それに従わない場合には対処措置を実施するよう地方自治体等に「指示」を行い、それでも従わない場合には、担当大臣が代わって対処措置を実施し実施させる権限をもつ。こうして、戦争への後方支援に、地方自治体や民間が強制的に動員させられる仕組みができているのである。
 しかも重大なのは、地方自治体の命運にかかわる事柄が、まともに自治体の意思を問うことなく決定され、自治体はそれに強制的に従うことが命ぜられる仕組みである。これは、国の戦争行為に直接影響を受ける地域住民の意思を問うことなく、当該地域を戦争協力に動員するものであり、憲法が想定する地方自治の理念にも反するものでとうてい許されるものではない。
 (4)自衛隊法改正案は、「武力攻撃事態」に際しての徴用義務や物資保管義務など私権の制限を盛り込み、また武力攻撃事態法案は、法案8条において国民に対し戦争動員態勢に「必要な協力をするよう努める」ことを求め、それを前提にして、今後二年以内に「国民の協力が得られるよう必要な措置を講ずる」法制を整備する(21、22条)と謳っている。その中で、有事に際して「社会秩序の維持に関する措置」を定めるとしている。
 このような市民的自由や権利の制限は、明らかに、戦争への動員に際し、市民の人権を広範に制限し、また反対運動やマスコミの規制を図ろうとするものであるが、先に述べたように、法案が、日本が武力攻撃を受けた事態ばかりでなく米軍の軍事行動への後方支援の際にも「武力攻撃事態」と認定し法を発動することをねらっていることを合わせ考えれば、憲法の人権体系に大きなくさびを打ち込み、市民的自由に対する大きな脅威となることは明らかである。

2 私たちは、有事法制を何としても止めるために、政党や労働組合、市民が、それぞれの持ち場で直ちに、法案阻止のために可能なあらゆる行動をとることを訴える。とくに私たちは、以下の行動が必要と考える。
(1)有事三法案を廃案とするためには国会での十分な議論が決定的といえるほど重要である。国会内では法案に反対する政党や無所属議員は、ぜひ、その垣根を超えて、法案反対の国会議員チームを結成し、法案の問題点、追及の焦点などを共同で検討し、有効な国会活動を行って欲しい。私たちも法案の問題点の検討にはできる限りの支援を行いたいと思う。
 また、有事三法案を廃案に追い込むには、国民の多くが反対の声を上げることが重要である。そのために、政党は一層のイニシアティブを発揮して欲しい。具体的には、政党や議員がイニシアティブをとって、労働組合や市民団体を包含しつつ、有事法案に反対する持続的共闘組織を立ち上げることを検討して欲しい。そうした持続的な組織なくしては、政府が次々繰り出す法案に効果的に対処できず、後手後手に回らざるをえなくなるからである。
(2)政党の中には、有事法制それ自体は必要だと主張する政党もある。しかし、今回の法案は、上記のように、日本が外国から武力攻撃を受けた場合に備えることを目的としたものというよりはむしろ、米軍の軍事行動の後方支援に自治体、民間を動員する文字通り「戦争態勢」づくりのものである。もし法案が、ほんとうに武力攻撃を受けた場合に備えるためなら、「武力攻撃事態」の定義は、「武力攻撃が発生した事態」に限ればよいし、また実際に武力攻撃が発生するのは地震や災害と違ってそれ以前から長い紛争期間があるため、武力攻撃事態の認定については国会で十分審議可能である。また地方自治体についても、当然当事者として決定に何らかのかたちで参画する手続きがなければならない。ところが法案の構造はそうなっていない。そうした点から、今回の法案には、はっきりと反対を表明し、国会で、有事法制に反対する政党と連繋して、有事三法案の問題点の追及に全力をあげてもらいたい。
(3)地方自治体の首長や議会は、本法案が、地方自治体の意思を問うことなく、一方的に武力攻撃事態を認定し、地方自治体に対処措置を強制することに対して、反対の意思を表明すべきである。その上で、自治体首長は、法案審議中の国会に対して共同で自治体の立場からの意見を述べるべきである。                         2002年5月

呼びかけ人
尾関周二(唯物論研究協会委員長 東京農工大学) 
小田中聰樹(民主主義科学者協会法律部会理事長 専修大学)
糟谷憲一(全国大学高専教職員組合中央執行委員長 一橋大学)
木村茂光(歴史科学協議会代表委員 東京学芸大学)
小谷汪之(歴史学研究会委員長 東京都立大学)
高橋哲也(日本私立大学教職員組合委員長 東邦大学)
野口邦和(日本科学者会議事務局長 日本大学)
            ( 以上、呼びかけ人第一次集約分)

共同アピールへの賛同のお願い

 ご承知のように、今国会に有事関連三法案が提出され、審議が始まっています。私たちは、この法案の成立が日本の安全を確保するものであるどころか、世界の平和、日本の平和に脅威を与えるものであることを憂慮し、学者研究者が、一致して、法案に反対の意思を表明しようと別紙のような、「有事三法案に反対する学者研究者の共同アピール」を作成しました。

 小泉内閣は、有事三法案を重要四大法案のひとつに位置づけ、何としても今国会での通過を図ろうとしています。今国会の会期は六月一九日までですので、情勢は予断を許しません。反対の運動を盛り上げることは一刻の猶予も許されません。
 私たちは、この共同アピールを政党その他にお渡しし、私たちの意思を伝えるとともに、できるだけたくさんの賛同署名を集約し、リーフレットに賛同者のお名前を列記して、私たちの意のあるところを広く訴えることにしようと思います。この趣旨に賛同される方は、ぜひご賛同の署名をお願いいたす次第です。
 なお、この賛同署名は、各団体ごとに多様な方法で集約しておりますので、アピールに賛同の意思をお持ちの方はしかるべき方法でその意思をお伝えください。 有事三法案を廃案に追い込むには、たくさんのことをしなければなりません。このアピールに賛同された方は、是非とも以下の行動を実行に移していただくことをお願いいたします。

1 賛同された方は、自分のまわりの同僚研究者に、この賛同署名を広げてください。共同アピール全国事務局で署名数を集約して、リーフレットその他で逐次ご報告をいたします。先にも述べましたように、署名者の名前を書いたリーフレットを発行し、広く私たちの意思を表明していくつもりです。
2 共同アピール運動を積極的に担う憲法研究者を中心に、今回の有事三法案を批判的に検討するブックレットを作成中です。このアピールに賛同された方は、ぜひ、こ
のブックレットを購入いただき、またその普及にご協力ください。
3 共同アピール運動はもちろん私たちの自前で行っておりますので、ぜひしかるべき金額のカンパをお願いします。
4 有事関連三法案を廃案にするには、国会での活動とともに、とくに地方自治体の首長や議会の声を上げることが重要です。そこでアピールに賛同された皆さんの自治体の首長や議員への働きかけを行い、声明や決議をあげることを訴えてください。

2002年5月 有事関連三法案に反対する学者研究者の共同アピール運動全国事務局 
●南京大虐殺事件の生き証人・李秀英さん、勝訴!(2002/5/10)
 南京大虐殺事件の犠牲者で、数少ない生き証人の李秀英さんを『「南京虐殺」への大疑問』(展転社)で「にせもの」と書いたことに対して、著者の松村俊夫氏と展転社社長を被告にして、訴えていた名誉既存裁判について、本日(5月10日)東京地裁で判決の言い渡しがありました。私は、判決公判を傍聴し、弁護団の判決検討会に参加し、その後の記者会見にも参加してきました。
 判決は、李秀英さんが本人であることを認め、松村氏が「偽者」呼ばわりしたことは、著しく李さんの名誉を傷つけたとして、李さんに130万円の慰謝料、弁護費用20万の合計150万円の支払いを命じました。判決では、この本が歴史資料について資料批判をしないで書いていること、記述に合理性が無いこと、松村氏が南京事件を否定するために書いていることが、合理性が無いことは普通の読者には容易に理解できるでたらめであることを認定しています。
 この判決は、歴史を歪曲する「つくる会」などには大きな打撃となるものであり、このような歴史歪曲図書を安易に出版したり、広めてきたマスメディアにたいする厳しい警告でもあります。
この本を直接編集した展転社の柚原正敬編集長は、「つくる会」の事務局次長でもあり、「つくる会」などの責任も問題になります。以下に弁護団の「声明」を紹介します。

   弁  護  団  声  明    2002.5.10
   李秀英名誉毀損事件弁護団    弁護団長 尾 山  宏

1 2002年5月10日、東京地方裁判所民事第39部(裁判長)は、李秀英名誉毀損事件に対し、被害事実を認め、被告らに対し金150万円(内弁護士費用30万円)の賠償金の支払いを命じる判決を下した。

2 原告の李秀英氏は、南京虐殺事件において日本兵により瀕死の重傷を負わされながも、生存した南京虐殺事件の生き証人である。本件は、村松俊夫著「南京虐殺への大疑問」(展転社出版)の中で、この李秀英氏に対し、同人があたかも南京虐殺事件の被害者として仕立てられた偽物であるかのように記述して、李秀英氏の名誉を著しく毀損した事件である。李秀英氏は、これに対し、著者松村俊夫氏、出版社展転社、発行人相澤宏明氏らに損害賠償と謝罪広告を求めていた。
  本件裁判は、藤岡信勝氏(東京大学教授・「新しい歴史教科書をつくる会」副会長)が、平成11年11月8日付け産経新聞正論にて、本件訴訟について「「南京」裁判に関わる新しい動き」として、「この裁判は法廷の場で、「南京虐殺」の存否を初めて本格的に争う絶好の機会となるであろう」と指摘したように、被告らを含む「新しい歴史教科書をつくる会」など歴史歪曲グループは南京虐殺論争の一部として位置づけた。
  本判決は、李秀英の南京虐殺事件当時の被害事実を詳細に認定し、本件書籍の記述が李秀英さんの名誉を毀損し、違法であることを認め、特に本件書籍について資料批判がなされてなく合理性がないことを認めた。
  
3、原告李秀英は、南京虐殺事件当時、日本軍人によって、強姦未遂にあい、抵抗したために瀕死の重傷を負わされるという被害を受け、未だその損害は償われていない。 それのみならず、今回、原告李秀英は、本書籍によって、本人の人生そのものを否定されるという筆舌に尽くしがたい被害に再び遭わされたのである。
  裁判所は、この原告李秀英の2度目の被害について、本件書籍の該当部分が名誉毀損に該当すると認定し、上記の損害賠償金の支払いを命じたことは、法律上当然のこととはいえ、歴史歪曲グループに大きな打撃を与えるものととして高く評価される。さらに本判決は、これまで、そして現在も無責任に南京虐殺否定説を出版し、南京虐殺の被害者の人権を傷つけてはばからない日本の一部マスメディアに対する重大な警告となるものである。
★5月1日「パレスチナ女性は今ー清末愛砂さんを囲んでー」に参加して(2002/5/5)
 4月14日に帰国したばかりの清末さんは、まず自己紹介からはじめました。
 イギリス留学中で、女性学・フェミニズム論の専攻、女性解放運動と性産業の女性、人身売買の問題に関心をもって研究している。 パレスチナとの関わりは、1987年第一次インティファーダ(民衆蜂起)後の集会や友人との出会いであり、その頃は10年後には状況は良くなっているだろうと予測していたが、2000年末から2001年の2〜3週間でみたものは、その予測が間違いであったといわざるを得なかった。NGO活動でインティファーダの中の女性について知りたくて、2000年12月23日ラマラの女性団体を訪問して話を聞いたが、子ども達が石を投げて抵抗するのは大人たちの扇動によるとマスコミで言われたりするが、子どもをどうして殺されることになる「石なげ」に送り出すことなどしようか、行くといっても親なら止めると聞いた。
 今はイスラエル兵に殺されるのだというが、この点が87年第1次インティファーダの段階と比べ違うところだ。イスラエル兵は、狂暴化している。自動小銃には実弾が装てんされ、スコープが装備され、パレスチナ人の心臓・頭を狙い撃ち、乱射するようになっている。パレスチナ人は素手もしくはパチンコ様の石投げ器くらいだが、射的場で撃たれるように、虫けらのように殺されていた。

 イギリスのPalestine Slidarity Campaignというパレスチナ支援の団体に加入し、シオニズム反対、反ユダヤ主義(人種差別)反対の立場にたって、イギリスの大学内で講演会などを企画したりしていた。反ユダヤ主義者!とか妨害のメールをうけたりしたが。

 2001年秋、PSCによるパレスチナの新しい運動(International
Solidarity Movement)、欧米人らの非暴力直接行動が開始され、デモや抗議、パレスチナの難民キャンプに泊り込み、14-40・50歳を無差別に連行する「家宅捜索」に抗議するといった行動をおこないはじめた。2週間のサイクルで組まれ、2日間のトレーニングを経て行動に入るというもので、その第3回が2002年3月29日から4月12日に計画され、清末さんはこれに日本人として唯一人参加した。

 ヨルダン(アンマン)→東エルサレム→(車で20分)→3・28ベツレヘムA地区→(車で30分)→ラマラA地区入り。

 1993年オスロ合意によって、自治区が承認されたが、A地区は行政・治安権ともにパレスチナ自治政府がもつ、B地区は行政権は自治政府、治安権はイスラエルで同占領軍が常駐、C地区は行政・治安権ともにイスラエルが握り占領軍が常駐。自治区といっても占領軍は常駐しており、今回の事態はA地区にイスラエル軍が侵攻した。

 各地区を越えるところにチェックポイントが置かれ、イスラエル軍が封鎖している。ベツレヘムA地区では、緊張した形相の兵士に銃を向けられ、タクシーは引き返さざるを得なかった。横道から入ったが、そこでは女性が頭を撃ちぬかれたと、あとで聞いた。
 28日にベツレヘム近郊のベイト・ジャラのチェックポイントから入って、29・30日と、無抵抗、国際法違反の植民地占領反対、催涙弾・音響弾への対処などをロールプレイなどでトレーニングした。
 30日に、1948年イスラエル建国により難民となったベイト・ジャラのキャンプへ行動に入る。
 キャンプといってもテントではなく、複数階の建物に難民は住み、狭いところにたくさんの難民が押し込められて人口密度は高い。住宅の屋上に水道の貯水タンクがあるが、これをイスラエル兵は撃ちぬき、電気も切り、肉体的精神的に追いつめる。イスラエルの労働許可証を持ったものだけが、安い労働力としてイスラエルで働けるが、ガザでの失業率は50〜70%といわれている。最貧困層が居住している。
 このヘイト・ジャラに駐留するイスラエル兵にデモ行進をした。イタリア、イギリス、アメリカ、スウエーデン、スイス、イスラエル、ドイツ、アジアで一人の清末さんら。歌を歌い、手拍子をとり、訴えをしていった。この時のイタリア人は、いつも活動的で先頭に立ち、しかもケガをしない。各々横断幕など手作りしていった。清末さんは「パレスチナ解放」と書いたら、「解放」の漢字がデザインとしてよいといわれ、そのまま掲げた。戦車の兵士が「オレンジジュース」を飲んでいる、ちょっとのんびりと思ったのが間違いで、音響爆弾だった。銃でも威嚇されたが無抵抗で抗議した。
 このあと、生誕教会広場近くで350人あまりのイタリア人たちと合流し、みんな気合が入っていた。

 イスラエル兵による攻撃は毎晩のように続いていたのであり、攻撃は難民キャンプに集中していた。自爆攻撃をするものが出やすい(あの17・8歳の少女もそうだったが)のは確かだが、「テロリストの巣窟」「武装勢力」と言われているのとは違う。旧式の銃で家族を守っているのが実情であるのに「テロリスト」といわれる。

 29日シャロンは軍事作戦継続を宣言、30日救急車も銃撃。31日ベツレヘム内のキャンプに宿泊。戦闘機が飛来。

 4月1日ホテルに戻り、ベツレヘムの街を散策。白壁の美しい町。市場にはイスラエルへの輸出が出来なくなった品物が滞留。10時間後、あの破壊が始まろうとは…
 ベイト・ジャラへ行進。うってかわって異常な緊張。横断幕も1枚にし、万一の場合に備え2人の交渉役も選定、そこへ戦車。(パソコンの動画再生)至近距離から発砲、スコットランドの女性腹部に破片被弾、イギリス人男性負傷、清末さんの足元に銃弾、跳ねた破片で負傷。負傷者7人うち1人重傷、救急車で搬送される。
 この時、先頭のイタリア人がスクラムを組み、1・2・3と掛け声をかけあって後退。パレスチナ人たちをスクラムの中に入れる。なぜなら、外国人だったから足元だったが、パレスチナ人なら確実に命を狙われるから。(銃弾の音、叫び声、掛け声、乱れ飛ぶなか再生終了)

 4月2日朝方5:30ころ突如地響きと猛然と進む戦車の列と発砲音。侵略の開始だった。ホテルの窓辺に近寄らないようにしていたが、6:30ー7:00ころホテルに5台の戦車が横付けされる。マスコミと外国人は封じ込められる。マスコミに写真を撮られることを異常に嫌う。まるで爆竹を鳴らすような、猛攻撃が始まった。10分ぐらいの連続の機関銃乱射、大砲も3分に1度は発射。これが朝から晩まで続いた。死傷者はそのまま放置された。
 水道タンク、パイプ、電気、電話を切られる。外国マスコミのクルーが制止を振りきって外に出たが、3分もしないうちに引き返してきた。イスラエル兵が走りながら乱射している、水道管とタンクの破壊で街中水浸しだと。
 夫婦と子ども9人の家族は、突如玄関に現れたイスラエル兵に母と長男を撃ち殺された。父と残された子は、遺体の移動を許されず、遺体を前に耐えるしかなかった。ホテルにいたアイルランド人の看護婦とアメリカのコメディアンの男性が白旗を掲げ、交渉し、子どもらを保護した。
 暗闇のなかで過ごす。携帯電話で大使館に助けを求めるが、日本大使館からは4月3日午前諦めるよう連絡あり、その後、アメリカに働き掛けたらしく、夜に大使館の車がやってきた。車中から暗闇を見ると、イスラエル兵の乱射と道路の破壊がうかがえた。
 
 この総攻撃の時、ベイト・ジャラキャンプに泊り込んでいたNGOの人は、空爆と戦車の四方からの砲撃にさらされ、立ち上がることもできず、はいつくばるのみで、これが1週間も続いたという。イタリア大使館の車で救出された彼らは、体重は半分になっていた。
 生誕教会では、食べ物も無く、怪我人も出て死にいたるのではないか。マスコミが近づくことを戦車が阻止している。
 4月12日段階では、ジェニンキャンプにいたライターによると、そこでは150人以上が虐殺されたという。 
  
<質疑>
*イスラエル内の兵役拒否の動きをどう見るか?
 同国内の平和運動はいくつかの流れがあるが、イスラエルの男女とも徴兵制の中で、就職・家族・友人・家族からも孤立させられてしまうのを覚悟で兵役拒否する若者にすごい希望をみる。
*私たちにできることは何か?
 個々のキャンプに医療品をもっていくため、パレスチナ子どもキャンペーンなどに募金する。
 現地ではISMのフリーサマーキャンペーンに参加する。その場合、語学(英語、アラビア語、ヘブライ語)ができることが必要。
*イギリスでは、パレスチナへの責任論は?
 植民地であったのは確かだが、イギリスの植民地は世界にあまりに多いので、パレスチナへの責任の自己認識は薄い。
 左派系知識人からはイギリスの責任について批判がでる。
 パレスチナ支援団体の規模は大きい。各地域に支部をもち、アフガン戦争のときも5万、10万人規模で反戦デモが起きる。
★5月3日憲法集会に参加して(2002/5/3)<T.M.>
きょう、日比谷公会堂で開かれた憲法集会に行ってきました。
開場より30分前(開会までは1時間半)に現地に到着したのですが、すでに老若男女の長蛇の列で、有事法制に対する危機意識が強く感じられました。開会時には会場の約2000ある席はもちろん、通路やロビーも人であふれ、昨年同様会場に入れない人たちが、外でモニターを見る盛況ぶりでした。(主催者側の発表では5000人)休憩時間に交わした会話(いろいろと考えさせられる発言だったので)を紹介したいと思います。
・去年も会場に入れないでせっかく来たのに帰ってしまった人がたくさんいたのに、今年もまったく同じ状況になっているのは問題。運動の幹部の人たちは、本気で有事法制を阻止する気(反対運動を広げる気)があるのだろうか。
・ドイツでは、政治のリーダーたちがナチの台頭を防げなかったことをナチの犠牲者の墓の前で心から謝罪して戦後の運動を行ってきたが、日本ではそういう姿勢がない。
・えらい人の話を聞くだけの集会のスタイルを変えるべき時。このような大規模な集会でも対話型集会は可能ではないか。参加者は発言したいのだ。
・「CHANCE!」という若者グループのような感性と表現のしかた(「ゆうじ」ってどんな奴?というプラカードを掲げて山手線の電車の中を練り歩く)や「ぶち合わせ太鼓」を演奏した「のむぎ平和太鼓」の若者たちのように多様な表現(文化)を集会や宣伝行動に積極的に取り入れ、とくに若者にアピールしていくことが重要。

私も、とくに対話型集会や若者の歌やギターなどの楽器伴奏や劇など多様な表現方法(文化)を、集会や宣伝活動のメインにすべきというところに共感しました。

<O.F.>
日比谷公会堂で行われる憲法集会に行ってきました。12時30分に地下鉄日比谷駅に着いたのですが、右翼の街宣車のがなり立てる声に思わず走りました。(神奈川大会を思いだしながら)
公園内は長蛇の列で、右翼団体の人と、実行委員との小競り合いなどもありました。少しずつ前進したのですが、「もう会場はロビーも満員です。日陰に入ってスピーカーから流しますのでお聞き下さい。」とアナウンスがあり、入れませんでした。

スピーチの内容は土井さんのはちょっと?という気がしましたが、あとの3人は具体的で分かりやすく、良かったです。次の予定があり、パレード(デモとは言わない)には参加できませんでしたが、有楽町の駅の近くでまた右翼の街宣車が何台もボリュームを最大限にあげてわめきちらし、警察はただ前に立っているだけでした。
マスコミに意見をどんどん出すこと、国会に出かけていくことなど、すぐに行動しなければ大変だと強く感じました。そして、法律を読むこともです。

★第9条を守ろうと望む日本の友人の皆さんへ 2002. 5. 3
憲法記念日に際してのメッセージ
チャールズ・オーバービー
第9条の会創始者・オハイオ大学名誉教授(工学部)
第2次大戦兵士・朝鮮戦争爆撃機パイロット
 2002年の憲法記念日に際し私が非常に気がかりなのは,「第9条」と呼ぶすばらしい英知が年ごとに一層ひどい破滅に向っているように思えることです.米国政府は自国の軍事勢力を全地球的に強力に展開するために,昨年9月11日に起こった恐ろしい悲劇的事件を利用して,オーウェルのいう「永久戦争」状態にしています.このことはさらに「第9条」を略奪する手助けになっています.

 主権を有する平和愛好の日本市民の皆さん,あなた方は今や半世紀以上にわたり日米両政府が公然とまた密かに行なってきた「第9条」の破壊行為の最終段階に直面しています.日本政府は現在,米国の戦争作り計画と目的に追従的に応えて,米国が始める戦争に日本が容易に参加できるようにするために,「有事法制」を成立させようと目論んでいます.1997年9月に発表された「日米防衛協力のためのガイドライン」の中にオーウェルの作品のような欺瞞的な言葉があるのを思い出して下さい.このガイドラインによれば,日米防衛協力は「日本の周辺事態」において要求されることになっていますが,「この周辺事態というのは,地理的ではなくて状況的である」と二枚舌的表現で定義されています.

 日本の主権をもつあなた方が,団結し共同して活動に必要な人々と資金を集め,非暴力的に継続して,日本中の各地域で抗議運動をすること,とくに国会と首相官邸のまわりで強く抗議デモをすることは効果があると思います.第9条を守ることができるのは,日本国憲法が述べるとおり,主権をもつ日本市民のあなた方だけなのです.

 あなた方の抗議やデモで,声を大にしてはっきりと日本政府につぎのことを要求して下さい:政府が第9条の存在を恥じるような思考をしないで,むしろ第9条を輝く名誉の印として掲げ,戦争の防止,紛争の解決のために,多くの非暴力,非軍事の方法があることを全地球の人々に示すという,世界的レベルの指導力を発揮する役割を担うことが大切です.

 あなた方はまた,日本政府が米国につぎのことを強く伝えるように要求する必要があります.(1) 傲慢でばかげた危険なミサイル防衛の愚行を日本へ押し付けるのを止めること.(2) 日本の領土から着実に米兵士を退去させ,日本への軍事的駐留の撤収を開始すること.(3) 2000年6月に始まった南北朝鮮間の平和的和解の道を阻害しないこと.

 第9条を守ろうとする皆さんの努力が成功するようお祈りします.
(訳文責: 第9条の会日本事務局 勝守寛)
★「インディペンデント紙 」2002年4月24日付、
「真実を語り継ごう」 イスラエル軍はジェニンで何をしたのか? 耳を閉ざしてはいけないジャスティン・ハッグラーとフィル・リーブスが明らかにした残虐行為(「インディペンデント紙 」2002年4月24日付、抄訳:パレスチナ子どものキャンペーン)

インディペンデント紙は5日をかけて、キャンプの生存者から詳しい話を聞くことができた。この聞ききとりには人権団体「ヒューマンライツ・ウォッチ」のピーター・バックウェルトが立ち会った。インタビューの多くは、崩れかけた建物内のリビングで行われたが、そこの壁はブルドーザーで完全に破壊されており、街路からは丸見えだった。

驚くべき事実がわかってきた。現在までに50名の遺体が確認された。インディペンデント紙は死者の名簿を入手している。ハマス、イスラミック・ジハード、アルアクサー殉教者軍団、治安部隊、そして一般市民……死者の半数近くが市民だった。市民の犠牲者全てが十字砲火によって死亡したわけではない。目撃者によると、故意に撃ち殺された人もいた。サミ・アブー・スバアが語ったところでは、65歳になる彼の父親モハメッド・アブー・スバアはイスラエル兵によって射殺された。父親は、近づいてきたブルドーザーの運転手に向かって、非武装の家人がたくさんいると告げた。ブルドーザーは引き返したが、父親はその場を動く間もなく胸を撃たれたという。

負傷した男性を救護しようとしたパレスチナ人の看護婦も、イスラエル軍によって撃ち殺された。19歳のハニ・ルメレが、玄関から外を見ようとして撃たれた。悲鳴を聞いて駆けつけてきた看護婦のファドワ・ジャンマと、ともに現場に向かった妹のルファイダ・ダマジュが撃たれた。妹は命が助かった。彼女はジェニン病院のベッドでこう語った。

「大きな爆発があって、明け方の3時半ごろ目が覚めた。家の外で男の人がけがをしたと聞いた。姉といっしょに助けにいき、応急手当をした。外には、抵抗運動に参加している男たちがいたので、どこかに行くには声をかけなければならなかった。姉は看護婦だから、けが人のところに行かせてほしいと頼んだ。話し終える前に、イスラエル兵が射撃を始めた。脚に銃弾が当たって転倒し、膝を折った。姉は私のところに来ようとした。『けがをした』と言うと、姉は『自分もだ』と答えた。姉はわき腹を撃たれていた。その後でイスラエル兵は姉の胸を撃った。どこを撃たれたのかと姉に呼びかけたが、姉は答えなかった。姉はひどく苦しがって恐ろしい音をたてた。そして三度荒い息をした」
 
撃たれたとき、ジャンマは看護婦の白衣を着ていた。医療関係者がつける赤い新月のマークがくっきりと見えた。ダマジュによると、姉妹がいた場所は明るかったから、兵士には二人の姿がはっきりと見えていたし、「すぐ近く」にいたのだから、助けを求める声も聞こえていたと言う。ダマジュが武装派のパレスチナ人に助けをもとめると、イスラエル兵は再度発砲した。二発めの弾丸が彼女の脚を貫いて胸に命中した。ダマジュを運ぶために救急車が到着したが、姉の方はすでに死亡していた。
玄関から外を見ようとして撃たれたハニ・ルメレは病院に運ばれたが、助からなかった。この翌日、ハニの義母は44歳になる夫を殺された。彼も一般市民だった。彼女が語っていると、父親を亡くした子どもたちがそばにやってきた。

「家の周囲で銃撃戦があった。午後5時ごろ、建物を見まわりに行った。爆弾を二つ見つけたと言うと、夫が確認に行った。2分後、夫が私を呼んだが、ひどく苦しそうだった。私は子どもを連れて夫のもとに行った。夫は立ったままだった。夫は、いつもとはまったく違ったやり方で私を見た。『やられた』と夫が言うと、口からも鼻からも血が流れてきた。子どもたちは泣き叫び、夫は倒れた。どうしたのかと尋ねたが、彼は答えることができなかった。夫は子どもたちを一人づつ見ると、その次に私を見た。それから、体が痙攣し始めた。頭に弾が入っていた。私は、救急車を呼んで、と悲鳴をあげた。一台の救急車が来たが、イスラエル兵が追い返してしまった」

ジャマール・フェエドは瓦礫に生き埋めになって死亡した。叔父のサエブ・フェエドによると37歳のジャマールは心身両面での障害をかかえており、歩くことができなかった。家族はジャマールの居場所を次々と変えては戦いの場を避けてきた。イスラエル軍のブルドーザーが甥のいる家に近づくのを見たフェエドは、走っていってブルドーザーの運転手に呼びかけた。だが、ブルドーザーは壁を突き破り、ジャマールはその下敷きになった。

子どもたちも犠牲になった。14歳のファーリス・ゼベンはイスラエル兵の手で無残な死を迎えた。少年が殺されたとき、戦闘はまったく行われていなかった。数時間ほどジェニンの外出禁止令が解かれ、ファーリスは買い物に出かけた。4月11日の木曜日だった。8歳になる弟のアブデル・ラフマーンもいっしょだった。アブデル・ラフマーンは不安げに上着をひっぱりながら、目を伏せたままで兄が殺されたときの様子を話してくれた。

「ぼくたち兄弟の他にもう一人いた。知らない女の人もいっしょだった。兄さんは家に帰るように言ったけど、ぼくは帰らなかった。みんなで戦車の前を通っていたんだ。戦車の前のところがぼくたちの方に向かってきた。こわかった。戦車が射撃を始めて、兄さんともう一人の子は逃げた。ぼくはこけてしまった。兄さんがこける のが見えた。こけただけだと思ったんだ。でも、地面に血が流れるのが見えたので、兄さんのところまで行った。女の人が二人やって来て、兄さんを車に乗せた」

アブデル・ラフマーンが現場まで案内してくれたので、歩いて距離を測ってみた。
戦車からは80mほど離れていたようだ。アブデル・ラフマーンによると、マシンガンが火を吹いたのは一度きりだという。少年はその音をまねてみせた。戦車の中の兵士は警告を出さなかった。彼らはファーリスを撃ったあと、何もしなかった。

15歳のモハメッド・ハワシンはキャンプを通りぬけようとして射殺された。アリヤ・ズべイディによると、病院に運ばれた息子ジアドの遺体に会いにいく途中のできごとだった。アルアクサー殉教者軍団に入っていたジアドは、戦闘中に死亡していた。モハメッドはズベイディといっしょだった。「銃撃音が聞こえた。モハメッドはドアのところに腰をおろしていた。弾をよけているのだと思った。モハメッドは『助けて』と言った。あの子のために何もしてやれなかった。彼は顔を撃たれていた」人通りのない街路で平たくなった車椅子の残骸を見つけた。現実とは思えないほどのつぶされようだった。鉄くずの中ほどにはぼろぼろになった白旗があった。ドゥラル・ハッサンによると、友人のケマル・ズガエルは車椅子で道を移動中に射殺されたという。イスラエル軍の戦車が遺体を轢いていったに違いない。ハッサンが見つけたときには片脚と両腕がなくなっており、顔は二つに裂けていた。

58歳のズガエルは第一次インティファーダで負傷した。歩くことができなくなり、仕事もなかった。ハッサンが、友人が暮らしていたみすぼらしい部屋を案内してくれた。床に汚れたマットレスを敷いたきりのがらんとした部屋だった。一人暮らしのズガエルは毎日、車椅子に乗ってハッサンが働くガソリンスタンドまでやって来た。ハッサンは友人の体を洗って面倒をみていた。彼の車椅子に白旗をつけたのはハッサンだった。

「午後四時すぎ、いつもどおりズガエルの車椅子を押して街に出た。こちらに向かってくる戦車の音が聞こえた。四台か五台だった。銃撃音がしたが、道端にどくよう警告してきたのだと思った」。ハッサンは翌朝になってようやく、確認のために現場に戻ることができた。道路には押しつぶされた車椅子があった。少し離れた草むらからは、ずたずたになったズガエルの遺体が見つかった。インディペンデント紙は、このような証言を他にも入手しているが、字数制限のためにすべてを紹介することができない。

ジェニンでの出来事に対し、イスラエル国内ではほとんど反対の声が上がっていないが、国際社会からは厳しい批判が寄せられている。ヨーロッパで大きな問題となっているのは、アリエル・シャロンは本当に「テロとの戦い」を行っているのか、それとも、パレスチナ国家成立のチャンスを根こそぎにしようとしているのか、という点だ。今週にはいり、イスラエル軍によって西岸地区一帯がこうむった被害が明らかになるにつれて、このような疑惑がさらに強くなってきた。イスラエル兵は故意にパレスチナの国家施設を粉砕し、医療省や教育省を破壊した。

イスラエル政府は国際的な非難に対抗するべく、ジェニンでの作戦行動を正当化するための大規模な広報活動を展開しているが、パレスチナ指導部の行動が、イスラエルの意図を助ける形になった。 パレスチナ指導部は即座に、根拠もない状態で、虐殺によって500名が死亡したと宣言した。パレスチナの人権団体が、この真実とは異なる話を広めてしまったため、事態はさらに複雑になった。

イスラエルによる広報キャンペーンは、非難のほこさきを別の場所に向けさせることを主な目的にしている。イスラエル政府筋はUNWRA(国連パレスチナ難民救済事業機関)を非難している。キャンプ内部で「テロリストのインフラストラクチャー」の整備を進めているという理由だ。UNWRAの職員は、自分たちは難民キャンプの行政をおこなっているわけではなく、キャンプ内の社会サービス、主に学校や医療機関を提供しているだけだと指摘する。

ジェニンの惨状が終わっていないということについては、論争の余地はない。ジェニンではパレスチナ人たちが行方不明者の捜索を続けている。捜している相手がイスラエルの拘置所にいるのか、瓦礫の下に埋まっているのか、どこか別の場所に葬られてしまったのかもわからない。パレスチナ人のあいだでは、イスラエル軍が遺体を持ち去ってしまったのではないかという疑惑が持ち上がっている。パレスチナ人は、ジェニンでの軍事作戦中、イスラエル軍が発表した死者数に異同がある点を疑問視する。イスラエル軍は最初、ほぼ100名のパレスチナ人が死亡したと発表した。その次には数百人の死傷者が出たと述べ、最終的にはわずか数十人に落ち着いた。話をさらに複雑にしているのは、イスラエル軍筋が当初、キャンプ内の遺体を運び出して「特別墓地」に埋める計画について言及していた点だ。現時点でイスラエル側は、ヒューマンライツの活動家がイスラエル最高裁を動かした結果、その計画は棚上げされたと述べている。

生存者にインタビューしている間は毎日、何件かの爆発があった。キャンプに撃ちこまれた大量のロケット弾や不発弾を、誰かが踏んでしまったのだ。42歳のファド
ル・ムシャルカは兄の死について語ってくれたが、その1時間後、今度は本人が病院に担ぎこまれた。爆発物を踏みつけて足を砕かれたのだ。

病院で一人の男性が近づいて来た。手のひらに何かを握っている。彼が持っていたのは小さな茶色い肉片だ。10歳になる息子のつま先だった。少年は爆発物を踏んで、両脚と片腕を失った。後に残されたのはパレスチナ製の粗悪なパイプ爆弾とイスラエル製の最新鋭爆弾だった。

イスラエル政府は、世界がこれらの事実を知らずにいてほしいと願っている。アムネスティー・インターナショナルが出した暫定的結論もここに加えるべきだろう。
アムネスティー・インターナショナルは、裁判外処刑などをふくむ深刻な人権侵害の証拠を発見しており、戦争犯罪法廷設置の呼びかけを行っている。

★ (2002/05/03)
★アラファト議長が監禁から解放されたことで、事態が改善されているかのような報道がされています。しかし、現実は、アラファト解放と引換えに、米国がシャロンに屈服して、ジェニンへの国連調査団派遣支持を撤回したのが真実のようです。

サンフランシスコ・クロニクル紙(4月30日付)によれば、ブッシュ政権のライス特別補佐とシャロン政権の間で取引がされ、アラファトの解放と引換えに、ジェニンの調査団を中止に追い込むように米国はイスラエルを支持し、またブッシュ大統領はシャロン首相を米国へ招待した。
こうした事情から、イスラエルの閣議は、アラファトの解放を17対9で承認したそうです。
つまりは、国連調査団は派遣されないのでしょう。こうして、真相がどんどん分からなくなるなか、「虐殺はなかった」という報道までが現れています。

★今日ご紹介する「真実を語り継ごう」(英国インディペンデント紙の記事抄訳)は、ジェニンで起きたことが何なのかを私たちにきちんと伝えてくれるものです。
「虐殺」という言葉の使い方が、日本語と英語で違うこともありますが、犠牲となった人の数についての現場での混乱を、あたかも酷く殺害された人々がいなかったかのように報道すること自体がおかしいのは言うまでもありません。
ベツレヘムの生誕教会の中にいる人々についてもほとんどがイスラエル軍の侵攻から逃れて教会に逃げ込んだ民間人と現地のパレスチナ警察官、教会の修道士達であるにもかかわらず、「立てこもる武装勢力」という表現がしばしば使われています。こうした捻じ曲がった報道が私たちの感覚を鈍くしています。

★5/2の広河隆一さんの緊急報告会は急遽の開催にもかかわらず、200名以上の方が参加されました。
ジェニンの廃墟、イスラエル兵の銃口、モノクロの写真が圧倒的な迫力で私たちに迫り、現場の壮絶な状況について、また現在のイスラエル社会についての報告に、参加者は身じろぎもせずにお話に聞き入っていました。真実の持つ力の強さを感じました。同時に、できるだけ多くの人に知ってもらいたいと思いました。
広河さんのお話については、まとまりましたらご報告します。なお、広河さんの写真はそのホームページで見ることができます。http://www.hiropress.net
★シャロン首相とブッシュ大統領への署名開始!!(2002/4/28)
シャロン首相とブッシュ大統領への署名開始!! 目標:1万人ネットでも署名できます!
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 イスラエルのシャロン首相とブッシュ米大統領への抗議署名を始めました。ネット上でも署名できますし、署名用紙をダウンロードして、周りの人から集めることもできます。http://plaza17.mbn.or.jp/~CCP/shomei/signature1.html

 ぜひ、ご家族や友人にも協力してもらってください。
なお、署名用紙は、パレスチナ子どものキャンペーンにご請求いただければ、郵送もできます。この署名は、当パレスチナ子どものキャンペーンとアーユス=仏教国際協力ネットワーク、日本パレスチナ医療協会が共同で呼びかけたものです。
★ ベツレヘムより (2002/04/19掲載)
ベツレヘムより  アレグラ・パチェコ

ここベツレヘムで我々は依然包囲されています。

生誕教会内に留まっている人々と話しましたので、どうかこの話を世に広め、イスラエルが流すデマを反駁して下さい。昨日教会を離れた4人の聖職者(祭司)たちは逃げ出したのではありません。彼らの退去は、イスラエル国防軍と教会、パレスチナ側の交渉担当者が調整した結果です。この4人は高齢者と病人で、教会内の状況は彼らには過酷過ぎました。よって4人の退去が、イスラエル国防軍と教会、パレスチナ側の交渉担当者によって調整されたのです。そして依然内部に留まっている聖職者や尼僧は、意に反して拘束されているのではありません。彼らは負傷者を介護し、教会内の人々のためにパンを作っているのです。

昨夜、デヘイシャキャンプの18才のジハード・アブ・アジュールは自宅で出産することを余儀なくされました。(出産に間に合うよう)キャンプに来れる救急車などなく、彼女は丘々を越えて病院に行けるような容態ではありませんでした。彼女は4キロの男児を生みましたが、赤ん坊は呼吸にトラブルがありました。彼女は救急車が来て赤ん坊を救ってくれるよう泣き叫びました。2時間も経ってようやく救急車が到着し、赤ん坊を病院に運びましたが、間もなく赤ん坊は亡くなりました。外出禁止令下で狙撃兵が見張る夜の帳の中、2人の祖父と父親はそっとキャンプを抜け出し、近くの墓地に赤ん坊を埋葬しました。ジハードにとって最初の子供でした。

4月3日水曜日午前1時、イスラエル軍は戦禍を逃れたジャーナリスト達がたくさん集まっていたベツレヘムの地元メディア・センターを襲撃しました。逮捕されたのは、パレスチナテレビのサイード・アヤド、アルマヘドテレビのアハメド・ミザー(マイツァー?)、アルラーアテレビのアシュラフ・アルファラジャ、ジャラル・ハミード、アラ・モハンマド・サラーです。彼らはグッシュ・エツィオンのユダヤ人入植地にあるエツィオン基地に連行されました。アハメド・ミザーとアラ・サラー、サイード・アヤドは後で解放されました。ジャラル・ハミードとアシュラフ・アルファラジャは解放されず、ラマラ郊外のイスラエル防衛軍基地にあるオファ・ベトゥーニャ陸軍刑務所に移送されました。この刑務所には1200人のパレスチナ人が過酷な状況下に抑留されています。イスラエル軍はもう18日間も弁護士がオファ拘置所を訪ねることを禁止してきました。

イスラエルテレビの発表によると、イスラエル軍はネゲブ砂漠刑務所「ケツィオン・アンサールV」を再開しました。ネゲブ砂漠の南西部に位置するこの刑務所には、最初のインティファーダの頃、5000人から6000人の政治犯が収容されていました。イスラエルのニュースは、金曜日までパウエル長官がここに来ることはないと喧伝しています。これは更なる殺戮と破壊への青信号を意味します。国際的な圧力こそが鍵です。そう身をもって感じます。どうか行動を続けて下さい。ではまた。  アレグラ(Allegra Pacheco)
★ ユダヤ系アメリカ人の意見 (イスラエルの新聞ハーレツ紙から)
THE ISRAEL PRESS IN THE CURRENT TRAGEDY - HARETZ ARTICLE
             ミリアム・ロウィ Miriam Lowi

 2002年4月8日のエルサレムポスト紙でジャーナリストのアリー・オサリバン(Arieh O'Sullivan)が伝えたところによると、イスラエル軍パラシュート部隊の司令官アヴィヴ・コチャヴィ(Aviv Kochavi)が、先週のナブルス難民キャンプ「攻略」後、次のように語ったという。「バラタの虎は、今や『小猫ちゃん』以外の何者でもない」考えられない侮辱だ!
 イスラエル軍関係者の中には、ワルシャワ・ゲットーでのユダヤ人の蜂起の際に、ナチスが取った弾圧と殺戮の方法から学ぶものがある、と言っている者さえいる。イスラエルの軍人たちにとって、ワルシャワ・ゲットーで抵抗運動を行った側から学ぶものはないのだろうか?戦車と最新鋭の兵器で武装した軍隊に立ち向かうことができなかったからと言って、弾圧に抵抗した人々を、『小猫ちゃん』と呼んだだろうか?ワルシャワ・ゲットーでのユダヤ人の抵抗運動は、勇気と誇りに満ちたものだった。抵抗者たちは、自ら信ずるもののために、そして生きる権利のために闘い、威厳の中で死んでいった。私は彼らを尊敬している。
 私はユダヤ人で、収容所からの生還者の娘でもある。私の眼には、一部のイスラエルの政治・軍事関係者が、ヨーロッパのユダヤ人たちの、歴史の中での経験につながる心理的な問題を、パレスチナ人との関係の中で、またパレスチナ人に対する対応によって解消しようとしているように見える。これまでイスラエル軍がパレスチナ自治区で行ってきた非道に対しては、言葉もない…。
★ 米−イスラエル連合は誰が動かしているのか今週分かるだろう(Independent8/4/2002 Robert Fisk)
ロバート・フィスクは、イギリス人で、レバノンを中心に中東で長年取材をしてきた優れたジャーナリストです。「インディペンデント紙」からの抄訳をご紹介します。
”Who runs the US-Israeli alliance?”
          (Independent 8/4/2002  Robert Fisk)
「米−イスラエル連合は誰が動かしているのか今週分かるだろう」

米軍はイスラム人捕虜を目隠し猿轡しているのだからシャロンは何も気に掛けなくていいイスラエルが突然我々の忠言を聞かないと言ってなぜ驚くのか。シャロン元将軍はテロとの神聖な闘いと称して、パレスチナ自治政府を破壊し、オスロ合意をメチャメチャにする積もりなのだ。おびただしい数のパレスチナ市民の犠牲者なんて彼は気にしやしない。なにせ米国は9月11日の人類に対する犯罪の後、地球上で最も貧しい国の罪もない人々数千人を殺して復讐の恨みを晴らしたのだから。しかし、シャロンが西岸から軍を引き上げることを拒否したときのブッシュ大統領の困ったような理解していない返事を聞いて、私は正直なところ苦い満足感を味わった。

このイスラエル首相は1982年にパレスチナテロ組織を根こそぎにしようとレバノンに軍事侵攻して、イスラエル精鋭部隊はほとんど民間人の17,500人もの人々を殺したのだ。その時と、同じ言い草、同じ役者であることを思い出して欲しい。その後シャロンは、イスラエルと同盟していた恐ろしいファランジスト軍を、パレスチナ市民1700人を殺戮した後に、ベイルートのサブラとシャテイ−ラ難民キャンプに送り込んだ。イスラエル自身の調査委員会は、シャロンにこの事件の個人的責任があると判定している。ベイルートで今明らかになっている証拠によると、実際ほとんどの難民が殺されたのは、生存者をイスラエル軍がファランジスト軍に引き渡した後の、殺戮から2週間後の間であることを示唆している。

だからシャロンが今止めようなどと思うわけがない。ブッシュがいい加減な同盟国たちを統率したいと思うなら、シャロンになぜ聞かないのか。この2週間にイスラエルに捕まって行方の消えた1000人以上のパレスチナ人捕虜がどうなったのか。例えば、イスラエル入植地のPsagotで私が見た目隠しされて鶏みたいに一束にされた5人の男達はどうなったのか。エルサレムを回ってテルアビブ高速道路を西に向かったワイヤで窓が塞がれたバスに乗せられた若者達はどうしたのか。これら若者の何人が尋問所或いはロシア領地と呼ばれる西エルサレム最大の拷問施設で拷問されているのか。しかしブッシュの兵隊たちはイスラム人捕虜を目隠し猿轡して、臨時軍事法廷に引き出すのが得意なのだから、シャロンが心配することがあろうか。シャロンがオスロ合意を破り捨てて、せっせとアラブの土地に入植地を建設させ、パレスチナ人を殺すために殺人部隊を繰り出し続けた何か月もの間、ブッシュ政権はイスラエルを怒らせることを恐れる余り、シャロンの好きにさせた。パレスチナの無法な自爆テロに対してブッシュは怒りを現した。イスラエルの侵略に対しては自制を促しただけで、何もしなかった。

改めて言うが、何を驚いているのか。何ヵ月も米国のメデイアは占領地で何が行われているのか聴衆や読者に報せることを拒んできた。新聞は、シャロンに一層野蛮な行為に走るのを励ますような狂った記者の好きにさせた。例えば、最近のNew York Timesに載ったWilliam Safire記者の、パレスチナ人に”殺された”ユダヤ市民といつものように言いながら、銃撃戦に”巻き込まれた”アラブ市民と表現している記事をどう理解すべきか。大多数の報道記者はイスラエルの犯罪をあえて言い表すのに”銃撃戦”がせいぜいなのだ。

Safire記者は古い手を使って占領地を占領ではなく「係争地」と表現している。これはパウウェル国務長官が出した国務省の政策文書で主張する真実を恐ろしく歪曲するものだ。Safire記者は、これらは係争地であって、占領地と呼ぶことはイスラエルの安全で守られた国境をもつ権利に対する偏見の表明に他ならない、と書いて、さらに真実を伝えようとする報道記者に新たな脅威を与えている。議論の進め方がお分かりだろう。もし我々がイスラエルの権利に対して偏見を持てば、これはほとんど反セム主義と呼ばれるに等しい。しかしこのナンセンスな議論をどう考えろというのか。先週、西岸で私の車を止めて銃を突き付けた兵士はスイス兵で、ラマラを出ようとして必死になっているパレスチナ女性に怒鳴っている下級兵士たちはビルマ人だと思い込めって言うのか。

Safire記者はしょっちゅうシャロンから電話を受け、そこで聞いた新しいシャロンの空想話を広めようとする。しかし私の古い親友のTom Friedmanも、先週NewYork Timesに「テロは無駄だと分からせる為に、イスラエルは徹底的に軍事攻撃をすべきだ」とまるで救済者の如くコラムに書いてほぼ一枚上を行った。神の名のもとに、米国記者がシャロンに戦争に行けとせかすのは何を意味するのか。Friedmanはサブラ、シャテイ−ラ難民キャンプで私と一緒にいた。あの時我々が目撃したことを彼は忘れたのか。しかしながら先週Friedmanはパレスチナ人に対してガンジ−流の非暴力抵抗をせよとさも友好的に忠言している。

Friedmanは「パレスチナ人が非暴力運動でイスラエルのもの言わぬ大多数の人々の良心に訴えていれば、30年前にパレスチナ国家が生まれていただろう」とのたまう。言わずもがな、二人の英国人を含めた西洋人が、ベツレヘムで平和的に抗議をしていて、イスラエル兵に銃撃され負傷した時には、Friedmanは沈黙していた。

パレスチナ人がなぜ自爆に向かったかの理由は、Friedmanによると占領−Safireが言ってはならないという言葉−に対する絶望からではなく、余りに自己中心的な怒りがパレスチナ人を盲目にしていて、人の生命の神聖さを見失わさせてしまっているというのだ。

そう議論は続く。パレスチナ人を余りにも長年に渡って野蛮な目に遭わせて、常々彼等の中にひそんでいると主張する野獣が、次第にその社会の中に生まれてきて驚くにあたるだろうか。イスラエルに着くまでにのろのろ7日間もかけさせてパウウェル国務長官を”緊急”平和ミッションに派遣するとした先週のブッシュの演説でさえ、パレスチナ人に対する毒舌を見合わせている。それでいて、これまでの全ての経過ありながらなお、ブッシュはなぜシャロンが軍を撤退させないかもしれないという理由がわからなかった。そう、今週は米国とイスラエル関係にとって、決定的なものになるだろう。ブッシュ大統領にとっての本当の試練となるだろう。米国とイスラエルのどちらが、米国の中東政策を本当は動かしているのか判明するだろう。前者であると思えればいいが、私も確信が持てない。
★ 包囲下のアラファト議長府より、イスラエル人の意見およびパレスチナの最新情報(2002/4/8)
以下の文は包囲下のアラファト議長府から寄せられた。
これを書いたのは、人間の楯として議長府にいるイスラエル人活動家ネタ・ゴランおよび米国のジャーナリスト、イアン・ウルビナ。国際的介入を強くもとめている。
ウルビナの所属するMiddle East Research and Information Projectによって最初に公表された(2002/4/6)。

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アラファト議長府に監禁されている国際平和活動家を驚かしているのは、イスラエルの攻撃ではありません。わたしたちがショックを受けているのは、国際社会が動かないということです。イスラエルの狙撃兵と戦車に包囲された弾痕だらけの建物の中では、だれもが一つの疑問を感じています。UNが即時完全撤退を要求する前に、イスラエルはどれほど多くの国際法を破るのでしょう?

長年の紛争をとおし、双方で残虐な行為がおこなわれてきましたが、今回の暴力行為はいまだかつてないほどの数にのぼっています。国際法は入植地建設を厳禁していますが、今年だけで34もの新入植地が建設されました。連帯責任によって集団全体を懲罰するのは違法行為です。しかしイスラエルは現在、パレスチナの都市ラマラへの食糧出荷を妨害するだけでなく、飲料水の供給を完全にストップすることまでやっています。120,000人のラマラ市民の命が危険にさらされているのです。パレスチナ人の発電所、学校、下水設備などの機能を停止するため、すさまじい爆撃がおこなわれています。毎日、非武装の市民が殺されています。

イスラエルの軍隊が病院を襲撃して、救急車やジャーナリストに発砲したという報告も増えています。どれも重大な国際協定違反です。アメリカの新聞記者Anthony Shadidの経験は、めずらしいものではありません。彼は、イスラエル軍が完全に掌握していた場所で撃たれました。静かで、交差射撃もおこなわれていない場所です。同記者は着衣の背中に標識をつけていましたし、前から見れば公式報道機関の記者であることがわかるようになっていました。議長府でのインタビューを終えて、外に出ていったところでした。記者が病院に到着した直後、イスラエル軍がマシンガンで病院を攻撃してきました。記者は治療のために移送されましたが、彼が乗せられた救急車は、検問所にいたイスラエル兵士に銃撃されたのです。

イスラエルは、国際人道法を定めた第4ジュネーブ条約を愚弄しています。UNがこのような行為を黙認すれば、この地域のみならず世界中での信用は失墜します。

議長府の中にいる人々にはどうあっても助けが必要です。もちろん、外での一斉検挙や戸別攻撃と向きあっている人々ほどではありません。建物内部の状況はこれ以上悪くはならないでしょう。とはいっても、医薬品は底をつきました。食糧もじゅうぶんではありません。

海外からの圧力が何よりも重要です。個人的なレベルであってもかまいません。ボイコットをしたり、手紙を書いたりしてください。さまざまな国の人々が集まって占領地全域で作った「人間の楯」のおかげで、イスラエル軍の無差別攻撃を制限することができました。しかしながら、事態を鎮静化させて和平交渉への道を開くのは、イスラエルは1967年当時の境界線まで完全撤退せよというUNによる要求です。これが実行されない限り、エルサレムの地位とパレスチナ難民をめぐる話しあいはありえません。最近になって侵攻した土地から軍を引き上げるだけでじゅうぶんなのです。

完全撤退を要求しているのはパレスチナ人と議長府の内部にいる外国人だけではありません。イスラエル軍部の中にも、イスラエル国民が平和と安定を手に入れるにはこの選択しかないとする人々がいます。シャロン首相あての公式の「拒否状」では、数百人ものイスラエル兵士(彼らの多くは実戦を経験しています)が完全撤退に賛同し、西岸地区とガザ地区での軍務にはつきたくないと述べました。

しかしシャロン首相は聞く耳を持っていません。議長府の内部では身の危険を感じることもあり、わたしたちの頭には、国際社会は、とどまることのないイスラエルの不法占領とアラファト議長の追放(暗殺ではないにしても)を認めてしまうのだろうかという疑念が浮かんでくるのです。

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イスラエル人ネタ・ゴランは40名あまりの国際平和活動家とともに包囲された議長府にいる。イアン・ウルビナはワシントンD.C.で発行されている「ミドル・イースト・レポート」誌のアソシエート・エディター。この記事は最初「ミドル・イースト・リサーチ・アンド・インフォーメーション・プロジェクト」(MERIP)に公表された。
★ 占領下ラーマッラーからのメッセージ(M.O./2002.4.4)
 パレスチナ・メディア・センターを代表して書いています。4月3日水曜、ラーマッラーが再占領されて6日、街のすべてが完全な闇のなかにあります。今や電気があるのはごくわずか、街のほとんど全域で断水です。イスラエル占領軍が街の主要な水と電気の供給網を破壊したためです。この2日間、電子メールを送ろうとしましたが、目下の状況において、とりわけラーマッラーでは、このような緊急事態の場合に使うことを想定していた代替電子メールがなかなか使えず苦労しました。けれども、なんとかこの電子メールアドレスを手に入れました。
 ラーマッラーではおよそ10万人の住民が自宅に閉じ込められています。この血塗られた幾日ものあいだ、わずかな安全も安らぎもないままに。頭の先から足の先まで武装した何万ものイスラエルの占領軍兵士たちが、かつては平和な街であったここラーマッラーに、あらん限りの破壊と恐怖と死をもたらしています。西岸の都市や町も容赦なく攻撃されています。とくにモスクや教会が、イスラエルの銃撃の標的とされています…
 ラーマッラーの街の何十人もの無防備な住民が無惨に処刑されました。何百人もの市民や警察官が狩り立てられ、アリエル・シャロンが宣言した、パレスチナ人一人ひとりに対する戦争の捕虜として連れ去られました。これらの国家テロ行為の数々によってシャロンは、1967年以来人びとを窒息させ、貶めてきた残虐な軍事占領を終わらせるのだという人びとの自由意志と決意を抹消することができると考えています。
 このようなテロルの数々におびえながら、私たちは家にいます。愛する者たちや友人たちの無事をただひたすら祈りながら。同時に、私たちのこのトラウマ的な祖国の状況を伝えるニュースや出来事をみなさんにじゅうぶん知らせることができないことにフラストレーションを感じてもいます。
 状況が許す限り、私の個人用の電子メールで情報をお伝えします。お察しのとおり、私たちは事務所に行かれないだけでなく、家をはなれることさえできないのです。私たちに連絡をとりたいときは、以下のアドレスに。:emergencypmc@hotmail.com または、 pmc@p-I-s.com. 次の電話番号でも連絡がとれます。0097059-750-439
 みなさんの忍耐に感謝します。どうか、みなさんも耐えて下さい。私たちはミサイル攻撃や爆撃やことばでは表現できないイスラエル占領軍の暴虐を生き延びながら、できうる限り迅速かつプロフェッショナルに、ニュースと出来事をみなさんにお伝えします。みなさんが、パレスチナ人の子どもたちや市民の無事を祈ってくださっていることに感謝します。
ヌール・オデフ
占領下パレスチナのラーマッラー、
パレスチナ・メディア・センター通信局長

Dear madam/sir,

I write to you on behalf of the Palestine Media Center. It is Wednesday 3 April and Ramallah has been reoccupied for six days, all of which until now we have spent in total darkness. The minority now have electricity while almost the entire city has been deprived of water after Israeli occupation forces destroyed the city’s main water and electricity networks. We have been trying to send e-mails for the past two days but because of the current situation, specifically in Ramallah, we have been encountering serious problems with the alternative e-mails we had hoped to use during emergencies such as this. However, we have finally been able to create this e-mail account and for that reason, I anticipate that this letter will reach some of you for the second time now. I apologize in advance for that.

Ramallah’s approximately 100,000 residents have been imprisoned in their homes, deprived of the barest sense of safety or comfort throughout these bloodstained days. Tens of thousands of Israeli occupation soldiers armed to the teeth and determined to wreak on once peaceful Ramallah, the maximum destruction, terror, and death they can cause. As we speak, West Bank cities and towns are being assaulted without mercy; their mosques and churches making for the most frequent targets of Israeli firepower...

Tens of defenseless Ramallah residents have been executed in cold blood. Hundreds of civilians and security officers have been rounded up and taken hostage to Ariel Sharon’s declared war on everything Palestinian, thinking that through these acts of state terrorism, he can eradicate a free People ’s will and determination to end the brutal military occupation that has been choking them and degrading them since 1967.

With these terrorizing factors in mind, we have been at home, awaiting, and praying for the safety of our loved ones and friends. At the same time, we have been very frustrated by our inability to communicate with you the news and events transpiring in our traumatized homeland.

Please note that so long as we are able, we will send you our e-mails through my personal e-mail because as you can imagine, we cannot leave our homes, let alone reach our office. If you need to get in touch with us, please do so at the following address: emergencypmc@hotmail.com or pmc@p-I-s.com. You can also reach us through this telephone number: 0097059-750-439.

I end this e-mail by thanking you for your patience with us. I ask you to bear with us as we try to do our best to communicate the news and events to you as quickly and professionally as possible as we survive the missile attacks, bombardment, and indescribable Israeli military brutality. Your prayers for the safety of Palestine's children and civilians is most appreciated...

Sincerely,

Nour Odeh
Communications Department Director
Palestine Media Center
Occupied Ramallah - Palestine
★ ガザからの訴え(J.S./2002.4.4)
ガザは完全に封鎖されていて、外部とは完全に遮断されました。外国人はすべて退去しました。国連スタッフも31日に撤退しています。

ガザ市内でも、上空を戦闘機が24時間旋回していて、人々は、イスラエル軍の軍事攻撃や再占領が始まるのに怯えながら暮らしています。食料や日常品などの買いだめが始まり、人々は最悪の事態に備えているのです。街角からは、小麦粉や砂糖などが消え、貧困家庭は文字通り食べるものに事欠くようになっています。

ほとんどの学校は休校になっていますし、どこにも行けず、多くの人々が家でテレビをじっと見ながら過ごしていますが、それは、かえって精神状態を悪化させる悪循環にもなっています。たとえ、無作為にそのあたりの家の戸を叩いて聞いたとしても、「自爆」したって構わないという若者を見つけるのは難しくないでしょう。家族の食料のために、リクルートされる人がいても不思議ではありません。一つの民族全体が、追い詰められ、精神的に病んでいます。それを作り出しているのは、シャロンなのです。また、ガザと西岸の軍事占領が続く限り、こうした状況が続くということを理解しようとしないイスラエルの国民にもその責任はあります。

いま、地球の他にどこで、軍事占領がありますか?こんなに長くひどい軍事占領を経験している民族は見つかりますか?アメリカで生まれた私は、歴史に残るほどの無能な人がいま、アメリカの大統領だということを恥ずかしく思います。彼は、中東がこんな状態だというのに、のんきに休暇を過ごしているそうです。パレスチナの人々は、20年前の悪夢、つまり、シャロンがベイルートで数千人のパレスチナ人を虐殺したことを決して忘れてはいません。私たちも同じ目に遭うのでしょうか?電気や電話はしばしば止められます。いつまで、外の世界と連絡が取れるのかは、分かりません。アトファルナでも、子どもたちは安全が心配なので、登校させていませんが、スタッフたちは、来れる人だけでも出勤してもらっています。みんなで仕事を継続することによって、少しでも正気でいたいからです。

私たちはこうした状況の中で生きています。そして、子どもたちの成長に希望を持ち、その教育のために精一杯のことを続けるつもりです。アトファルナろう学校が日本の支援で開校して、この5月で10年になります。ガザの聴覚障害の子どもたちのために、次の10年に向けて私たちはこの状況を生き延びたいと思います。
★「2002平和の行進 朝鮮通信使」が行われます(2002/04/02H.H)
「2002平和の行進 朝鮮通信使」が行われます。
2002年7月24日にソウルを出発し、対馬を経て東京まで若者が行進する行事です。日韓両国が費用を負担することになっています。「現代版通信使」と言えます。また、わらび座が8月25日の秋田を皮切りに、東京、ソウルなどで「つばめ」を公演します。脚本はジェームス三木です。壬辰倭乱時に連れて行かれた女性と、朝鮮通信使として旅立つ若者を主人公にしたものです。音楽・舞踊は韓国の人が担当します。
★中国人元「慰安婦」第2次訴訟東京地裁判決(2002/03/29)
中国人元「慰安婦」第2次訴訟東京地裁判決
 3月29日金曜日午前11時から、東京地方裁判所民事10部が、中国人元「慰安婦」第2次訴訟(原告は、郭喜翠及び候巧蓮。但し、候さんの死亡により5人の子どもたちが訴訟承継。被告は国。)の判決を言い渡しました。主文で請求棄却というのは、予想通りです。 しかし、今日ここで敢えて通信しているのは、以下に述べるような見るべき点があったからです。
1、詳細な事実認定をしたこと
 第1次訴訟判決については、既に批判をいろいろなところで書いてあるので、ごらんになった方も多いかと思いますが、国側は事実について認否せず、判決は事実について認定するまでもなく法律論で退けました。
 これは、第1次訴訟の原告4名の大娘さんたちの、もっとも悲しみ憤激したところでした。彼女たちは、自分たちは、自分の意思で日本軍に付いていったのではない、無理矢理連れて行かれて無理矢理制度令にされたのだという事実を公式認定して欲しいという強い願いを持っていました。「汚れた女」であるにしても、自らそれを望んだのではなく、自分ではどうすることもできなくて被害にあったということを認めて欲しいと思っていました。なのに、第1次訴訟は、事実認定をしませんでした。4人の原告さんたちの失望ぶりは、甚だしいものがありました。
 第2次訴訟では、とにかく事実認定をせよということを、しつこく裁判所に言い続けました。郭大娘さんの原告本人尋問では、彼女のお孫さんの写真を出して、この孫よりも小さいときに以下に述べる被害にあったのだという話をしました。性器切断の話は、本番の尋問の中で突然出た話ですが、裁判所は非常に衝撃を受けたらしく、2カ所にわたってこのことを指摘しています。なくなった候大娘さんについては、判決を郭裁判所は一度として姿を見ていませんから、山形テレビの庄司さんのご尽力を得て、同テレビが取った生前の彼女の映像、子どもたちの映像を検証して貰いました。
 そういうことの影響もあったのか、本日の判決では、非常に詳細に、彼女たちの被害事実の認定をしました。原告さんたちはきっと喜んでくれるでしょう。
2、PTSDが現在の被害として存続していると認定したこと
 「慰安婦」については、50年も前のことを持ち出しているという風潮があります。そこで、第2次訴訟では、PTSDとは何かについてかなりしつこく主張しました。山形大学病院の桑山医師は、山西省に2回も行って診断してくれました。 この診断に基づく意見書を証拠として提出しました。
 そして、被害事実と、現在の症状について、ICD10とDSM4の基準を鼎立した上で、個別のあてはめをやって、かなり説得的に、PTSDが重いことを述べることに成功しました。桑山さんは、最終準備書面の該当部分を添削する労を惜しみませんでした。
 その結果、二人の方のいずれについても、PTSDが現在まで続いているという認定をして貰いました。これは、表現はたった2行ずつですが、彼女たちの被害が、現在につながる被害であるということを明らかに認定させた点で、評価に値します。
 単に、時効論を切るために使うというレベルではなく、彼女たちの抱える苦痛というのが、過去の過ぎ去った出来事ではなく、現在進行形の苦痛なのだということを、分かって貰えたと思うし、これを多くの人に知らせていくべきだと思うのです。
 法律論については、ちょっとまたニュアンスの違うけり方をしています。とりあえずのご報告ですが、またご意見を下さい。
★ 遥かなる中米(D.K./2002.2.28)
 2002年1月30日〜2月7日まで法律家、新聞記者、平和に興味のある市民で、コスタリカを訪問して視察していますが、これをコスタリカ便りとしてお送りしています。
 初日の1月31日は、国連平和大学、地球評議会への訪問をした後、国際反核法律家協会のヴァルガス氏の講演を聴きました。
 国際反核法律家協会副議長のヴァルガス氏のお話の概要は以下の通りです。 (文責土井、もちろんヴァルガス氏がこの文章に何らの責任を負わないことは言うまでもありません)
 「コスタリカは、隣国での内戦、クーデター、大国の介入等の危機を乗り越えてながら、1948年に廃止した軍隊を二度と復活させないという理想を追求した。それは、対話で可能だった。対話をベースとした子ども達に対する教育が基礎となった。対話で紛争を解決したのだ。この対話への努力が1986年から政権をとったアリアス大統領のノーベル平和賞となった。
 コスタリカは約20年前に永世非武装中立宣言を行っているが、ここからいろいろなものが生まれた。人権保障、人権や民主主義に価値をみいだすこと、中米の軍隊廃止の動きに協力していくことなどだ。そして、他国に対して、平和を目指して仲介することが中立だからこそ可能になった。
 日本は、コスタリカとは、貿易、政治、人口、問題の大きさが違うから、同じように永世中立宣言をすることはできないという意見がある。しかし、これらの要素の違いがネガティブになるかというと、それは違う。私は、日本は永世中立国であるべきと思う。日本は、アジアの中でこの宣言が出来る第1の国だと思う。その理由の一つは、残念なことに、日本が唯一の被爆国であることである。永世中立国になることによって、二度と被爆を現実にしてはいけないというメッセージにもう一度意義を与えることが出来る。日本の国民はこのことの意味をより重要だと考えるべきではないか。もう一つの理由は、日本の教育水準の高さがある。
 また、コスタリカが紛争にまきこまれそうになった際に、米州機構の一員であることに大きな意味があった。紛争の解決は、こういった国際機関によるべきである。また、コスタリカに設置されている米州人権裁判所が、国際基準による人権課題の解決を実現している。このように、コスタリカには米州人権裁判所があるが、あなたたちは、アジア人権裁判所があれば、いいと思わないか。日本人のみなさんが、最初の音頭をとらないといけない。アジアにもそれが必要ではないか。」と熱弁を振るいました。
 現在、この旅には、朝日新聞記者で私が大ファンの伊藤千尋さんが参加しておられます。そこで、20年以上前のサンパウロ支局長時代からの経験で楽しいお話をして下さいました。コスタリカの平和主義を理解するにあたって、中米の状況の理解はかかせません。たくさんのこぼれ話があって本当におもしろかったのですが、その骨子だけお知らせします。

 伊藤千尋さん(朝日新聞記者)の話:2/1@コスタリカ
 (文責・土井、伊藤千尋さんはこの文章にいかなる責任も負いません)
 「中米における内戦・コスタリカ」
 中米5カ国「グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、コスタリカ」前4者は戦争を続けてきた。
 グアテマラは、一言で行って、インディヘナ対白人の戦いの歴史。30年の内戦で、20万人が死亡。
 エルサルバドルは14家族が全土を支配。エルサルバドルでは、ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)が国を支配しそうになったが、アメリカが介入した。しかし、国民の支持はゲリラにあった。政府:ゲリラ=2:1で全土を支配。92年に和平協定が結ばれ、内戦が終わった。75000人死亡。ホンジュラスは貧しすぎて内戦も出来なかった。
 ニカラグアは1932年まで20年間ウィリアム・ウォーカーというアメリカの一個人がアメリカンが肩入れの元、国を占領した。
 パナマ運河は幅が狭すぎてあまり役に立たない。航空母艦も通れない。アメリカは、ニカラグアには大きな湖があるので、湖を使って運河を造りたかった。愛国者サンディーノ将軍がこれにゲリラ戦を挑んだ。しかしサンディーノはアメリカにだまされて暗殺された。そこで、アメリカはソモサという軍事独裁者を送り込み、アメリカに完全追従+汚職。
 ニカラグア人は、キューバ革命をみて、翌年の1960年ゲリラ組織サンディニスタ民族解放戦線(FSLM)を作った。1979年に様々な中間層、右まで含んで革命成功。アメリカは、これをつぶすために、マイアミに逃げたソモサ軍を金で金で集めて、右派ゲリラ「コントラ」を作り、ニカラグアに送り込んだ。ホンジュラスのアメリカ軍基地に彼らを送り込み、ホンジュラスからニカラグアに攻め込ませた。82年に戦争が始まり、84年にピークになり、86年には、貧しさ故に政府軍は戦争を遂行できず、厭戦気分が蔓延。
 90年に解放戦線が大統領選挙をやることになった。そしてサンディニスタ民族解放戦線(FSLM)は負けて、チャモロという女性がかった。そして、コントラを許し、様々な人で政権を作った。
 この時代に平和で非武装永世中立宣言をしたコスタリカは、平和を享受していた。すごい。左翼ゲリラの国とパナマに駐留しているアメリカ軍の間で何らかの主張をしなくてはならなかった。そこで、積極的非武装中立宣言。
 その後、86年の選挙で、アメリカに頼らず中立で行くと主張したアリアス大統領がかった(対立候補はアメリカの援助を仰ごうといった人だった)。アリアス大統領は、「俺達だけは平和」という消極的平和ではなくて、積極的平和外交で、「国際火消し」として、中米各国をまわり、戦争をやめるように対話を勧めた。1987年エキスプラス合意を結ばせた。
 コスタリカは、1887年には進歩的独裁政権が憲法を作り、死刑を廃止し、宗教への介入を禁止した。
 1948年6週間2000人が死んだ内戦を反省し、武器を捨てた。標語は「兵隊の数だけ教師を作ろう」。但し、今の問題は経済・・・。
 ちなみに、今まで、どうも不親切な説明でしたが、中米の小国コスタリカは、日本と唯二、平和憲法を持つ国で、1948年以来、本当に憲法を廃止し、1983年には「永世非武装中立宣言」までしました。この宣言をしたのが、今回の人、モンヘ元大統領です。 コスタリカ便り2からもわかるとおり、中米中が戦争に明け暮れ、コスタリカも危ない状況にいたにも拘わらず、です。
 1948年から平和憲法を保っているコスタリカですが、この国は、1983年、中米各国の紛争の中で、改めて、「永世非武装中立宣言」という画期的宣言を行いました。この宣言を行ったのが、モンヘ大統領でした。
 私たちは、2月4日、1982−1986年にコスタリカ大統領で、1983年永世非武装中立宣言を行ったこのモンヘ元大統領からお話を伺いました。
 以下、大統領のお話の概要です。
 (文責土井、もちろんモンヘ元大統領がこの文章に何らの責任を負わないことは言うまでもありません)
 私が大統領だった当時、ニカラグアの左翼政権サンディニスタはソ連とキューバの支援を受けて、アメリカの支援を受けたコントラと闘っていました。冷戦構造がはっきりと中米に現れており、アメリカが様々な右翼を支援し、キューバが様々な左翼を支援し、様々な戦争が行われていたのです。
 当時、アメリカが行っていたことが、主権の侵害であり、人権の侵害であることを世界に示す必要がありました。アメリカのペンタゴンは、私の中立主義に対して、反対の意見を述べに来たが、私はこれを拒絶しました。私は、このような圧力に屈せず、1983年11月17日永世非武装中立宣言を行ったのです。しかし、私たちは、社会民主主義及び共産主義、ローマ法王、キリスト教民主主義そしてコスタリカ市民達の支持を受けることができました。
 私たちは、スイスやオーストリアなどの小国の中立主義を参考にしましたが、しかし、これとコスタリカの中立主義は異なります。彼らは軍隊を持っていますが、私たちは軍隊を持っていないのです。中立を守るために、私たちは、軍隊で武装するのではなく、調停と仲介を通じて積極的に平和を作り上げていくことが必要です。
 この中立は、イデオロギー的な立場で主張しているのではないけれども、人権尊重、自由を守るという指向性を持っています。アメリカ内でも、タカ派は私たちを非難したが、一方で、民主党などは、コスタリカのポジションを支持したのです。
 確かに、この永世非武装中立宣言後も、アメリカのタカ派などからの圧力がありました。レーガン政権は、当時、コントラという右翼ゲリラを支援して、ニカラグアの左翼政権を攻撃するなど、中米各国の左翼政権を攻撃していました。
 私は、レーガン大統領及びブッシュ副大統領と会見して、自分の中立プログラムを文書として提出したのです。そして、コスタリカは、福祉と教育に力をいれて、コスタリカの独自の思想で、この圧力をはねのけたのです。
★ 自由法曹団の有事法制反対のパンフ(S/2002.3.9)
 自由法曹団という弁護士の団体が「往くべきは平和の道 有事法制に反対する」というパンフレット(パンフというかホッチキスでとめた資料集)をだしています。なかなかいいパンフレットだったので、おすすめします。
 まえに、日本平和委員会のパンフレットも紹介しましたが、それにくらべるともう少し今回の有事立法のうごきをていねいに追っています。(いつの国会に出されそうかとか、包括法案だ、とか、何を対象からはずそうとしているか、とか)
 わたしが注目したのは、つぎの3点。
(1)くらしにどんな影響があるかを、法律の用語から離れずにイメージしやすく書いてある、
 「緊急の場合には、師団長などが(病院を)『管理』できるから、こうなるとまさしく『軍直轄の病院』。…病院長らの権限が制限され、戦傷病者を優先して入院させる、という事態が想定される」「輸送労働者は最前線の中隊に武器・弾薬を運び込むトラックの運転を命じられるかもしれない」「私人の邸宅を高級将校の宿舎として、民間マンションを兵舎として『使用』できる」……このテの家イメージがてんこもりで、わかりやすい!
(2)シロートをだます用語の「翻訳」をしている、
 「物資の『保管』とは、フリーズ(凍結)すること。いっさいの移動・販売などを禁じてしまうのである」「収用とは取り上げることである」
(3)「罰則は保管命令だけ」というナゾを見事にといている、
 実は、ほかの問題は今回わざわざ罰則をつくらなくても実効性を確保できるのだ!
 このほかにも、自由法曹団はアフガンに空爆の調査にいっていて(forumMLにも投稿がありました)、「空爆の被害は『誤爆』によるものではなく、タリバーン政権の転覆やビンラディンの『いぶり出し』のために、軍事的要衝の周辺の村々に米軍が無差別攻撃を行ったことによって、発生した…こう考えるのがもっとも難民の証言と整合する説明である」と推論しているのも興味深かったです。
 自由法曹団のホームページはこちら http://www.jlaf.jp/
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