第54回歴教協三重大会の雰囲気A
                          雰囲気@  雰囲気B  雰囲気C
内宮神苑を抜けると「火除橋」と「一の鳥居」があり、そこから先にはトイレが無い。「ここから神域」という江戸期のイメージが残っている。しかし元は、その先にも民家はあった。1658〜61年の万治年間、1830〜44年の天保年間に撤去させられた。

その結果、現在の「神楽殿から奥」は中世以前の大木があり、「火除橋から神楽殿まで」は江戸の植林、「宇治橋から火除橋まで」は明治の植林となっている(写真は、神楽殿手前)。

神楽殿は明治以降につくられた(建物に「菊の紋章」がついているものが明治以降につくられた建物)。神楽は、舞楽を奉じたり、祝詞(のりと)を読んだりして神様に願い事をすること。江戸期には、御師の屋敷に神楽師が回ってきて太々(だいだい)神楽をやっていた。1871(明治4)年に御師の祈祷が禁じられ、神楽を行う新施設としてつくられたのが神楽殿。

神楽殿で神楽をする場合、大きなお金が必要。少ないと、隣の「御食(みけ)殿」になる。

風日祈宮(かぜひのみのみや)橋には、「明応7年(1498)」銘のある、三重県最古の擬宝珠(ぎぼし)がある。「本願観阿弥 敬白」ともあり、阿弥(勧進聖)の力でつくられたもの。中世の神宮の財政基盤が分かる。古代は律令国家の財政支援があったが、中世は荘園領主として自立することが求められた。「御厨(みくりや)」と呼ばれた荘園の獲得をめぐって、内宮と外宮とが血みどろの戦いをしたり、戦火で内宮本殿が焼けたりした。戦後も国家補助が無くなり、お賽銭(さいせん)だけでは経営が成り立たず、神楽で成り立たせているという。

五十鈴川に沿って痕跡が残る「僧尼(そうにょ)遥拝所」へ通じる道(立入禁止)。江戸期には、僧や尼が一般の人と同じように参拝することは許されなかった。川の対岸から木々の向こうにある神宮を遥拝(ようはい)するだけだった。

風日祈宮(かぜひのみのみや)は、もとは「風神社」。元寇がきっかけで別格に昇格した。社殿の前には幄舎(あくしゃ)があるが、これは天皇などが参拝するときか、儀式のときにしか使えない「日よけ雨よけ」。近代以降の作り物で、一般の人は使用できない。

正宮(しょうぐう)の入口の階段。見える鳥居が「板垣南御門」。ここをくぐると「外玉垣南御門」。ところが、ここから内部にある「御正殿」方向は撮影禁止になっている。近世、少なくとも1763(宝暦13)年には、「外玉垣南御門」より内部の「内玉垣南御門」の手前まで、庶民が自由に入ることができた絵図が残っている。今は「特別参拝」を申し込まないと入れない。特別拝観できるのは、皇族、神宮祭主、国会議員、県会議長、勲3等以上、従4位以上、文化勲章・博士の学位や褒章(ほうしょう)を受けた人、神職、もと判任官待遇以上の職についている人、御造営資金1000円以上払った人だけ。しかも、だいたい「鳥居の前」ぐらいまでなのが、10万円出すと「鳥居の下まで」、100万円出す(=首相級)と「鳥居と内玉垣南御門の間」ぐらいまでと、「差別化」を図っているというから驚く。天皇のみ「御正殿」まで入れる。神宮に初めて参拝した天皇は明治天皇で、1回目は古式の服装、2回目以降は軍服だった。

正宮(しょうぐう)は、今では幾重もの垣に囲まれて見ることができないが、「御稲御倉(みしねのみくら)」がその構造を知るための良い材料となる。「御稲御倉(みしねのみくら)」は正宮と同じ「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」で、建物外側の棟持柱は、7世紀末の高床式倉庫の建築様式を残しているという。「御稲御倉(みしねのみくら)」の先に行くと、正宮の頭部が見える場所がある。現在の正宮は東殿地にあるが、2013年に「西殿地」に「遷宮」することになっている。繰り返しになるが、そのための「お木曳(ひき)」行事が2006年に始まる。建物の細かいつくりを作業する職人さんの労力たるやものすごいものがあるが、このように「遷宮」は20年ごとに繰り返されていく。