< 声明 >
2001年、2002年分
過去声明  2003〜2004 2001〜2002 1998〜2000 
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「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について(中間報告)」に対する意見書 2002/12/11
愛媛県教育委員会の「つくる会」教科書の採択に抗議し、その撤回と採択のやり直しを要求する 2002/08/24
▼三重大会決議中教審がすすめる教育基本法の「見直し」・改悪に反対しよう 2002/08/01
 三重大会要請京奈和自動車道の平城宮跡通過計画を撤回し、世界遺産平城宮跡を守ることを要請します 2002/08/01
決議 有事法制に反対し、教育基本法改悪を許さず、日本国憲法を教育に根づかせよう 2002/03/31
報復戦争の即時中止と報復戦争支援三法案の廃案を要求し、戦争と暴力のない世界をきずく行動と学習を推進しよう 2001/10/11
第53回全国大会(神奈川大会)決議文 2001/7/31
「新しい歴史教科書」が教育の場に持ち込まれることに反対する緊急アピール2001/5/26
憲法否定・国際孤立の道へ踏み込む教科書を子どもたちに渡してはならない2001/4/3
【資料】 「つくる会」教科書の検定結果について
「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が教育の場にもちこまれることに反対する声明2001/3/13英語アピール

「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について(中間報告)」に対する意見書

                             歴史教育者協議会常任委員会

1.日本国憲法との一体性を無視した教育基本法「見直し」は許されない
日本国憲法は、基本的人権を保障し、国民主権と平和主義を原理とする立場を鮮明にしている。そして教育基本法の前文は「(憲法の)理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」と規定し、教育基本法が憲法と一体のものであり、その理想の実現をめざす準憲法的な位置付けをもつものであることを明らかにしている。
 またふりかえってみれば、大日本帝国憲法には教育に関する規定がなく、教育の原理は天皇大権にもとづく教育勅語によって定められていた。教育基本法はこのような体制を否定してつくられ、教育基本法制定後、教育勅語は国会において明確に失効が決議されたのである。この点からみれば、教育基本法は日本国憲法体制下における教育の原理を定める教育の憲法というべき位置付けを持って制定されたことは明らかである。
 したがって、日本国憲法がなんら変更されていない以上、日本国憲法の規定にないような原理をもって、教育基本法の「見直し」を行うことは許されない。また、教育の憲法という位置づけをもつものである以上、あれこれの具体的な問題が書かれていないというようなことが「見直し」の理由となるものでもない。
 ところが中間報告は、突然「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」という教育目標をかかげ、それにそった教育基本法「見直し」の議論を展開する。これまでの審議の過程からみると、その主眼は「たくましい日本人の育成」にあることは明らかである。このような教育目標が、憲法上に根拠をもつものとは到底考えられない。憲法上なんの根拠もない原理をもって教育基本法の「改正」を企てることは、上述の通り許されないものである。また、明らかに政治主導で持ち出された「たくましい日本人」という目標のもとに教育内容や教育制度を改変することは、教育への政治介入であり、教育基本法第10条の明白な違反でもある。
中央教育審議会(以下、中教審)は、上に述べたような、教育基本法の「見直し」なるものがそもそも成り立つかどうかにかかわる、いいかえれば「見直し」の前提となる重要問題について、審議をした形跡がまったくみられない。さらに付け加えるならば、中間報告素案の段階から中間報告案にいたるまで、教育基本法「見直し」を検討する基本問題部会が定足数不足のため成立しないままに論議を重ね、その間に内容を変えていることも明らかになっている。初歩的な民主主義のルールすら無視していることになる。したがって、あらゆる面からみて、今回の中間報告は、成立の前提条件をそもそも欠いているといわなければならない。

2.中教審の現状認識と基本理念「見直し」論の問題点
(1)中間報告の第1章は、教育の現状と問題点についてあれこれ述べているが、いずれにしても教育基本法にその原因があるとの説明は見いだすことができない。にもかかわらず、「新しい時代の教育が目指すべき目標を考える」として、日本国憲法の理想との関連をまったく示さぬままに「21世紀を切り拓くたくましい日本人の育成」をかかげ、これを教育基本法「見直し」の必要性につなげようとしている。教育の根本理念を考えるときにこのような手法をとること自体許されないものであることは先述の通りであるが、ここではさらにその内容に立ち入って検討することとする。
 中教審の現状認識の根底にある中心問題は、全体の文脈から判断すると、「グローバル化の進展」と大競争時代の到来にあるといえる。それにともなって「高度情報化の進展と知識社会への移行」があり、一方「国民意識の変容」がおこっているという。
 これにたいする処方箋の第1が、「専ら結果の平等を重視する」現在の学校教育のシステムではできないエリートの育成である。第2章は「これからの国境を越えた大競争時代に、我が国が世界に伍して国際競争力を発揮するためには、『知』の世紀をリードする創造性に富んだ多様な人材の育成が不可欠」と述べ、その点が教育基本法に示されていないから「見直し」が必要だとしている。
それを正当化するために「個性に応じた教育」が強調されている。教育基本法は前文で「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす」とし、第一条でも「個人の価値をたっとび」と「個性」重視の立場を鮮明にしている。あたかも教育基本法が個性を尊重していないかのように暗示して「個性」を強調するのは、一人ひとりの「個性」を生まれつきの「能力」とみなし、エリート育成を効率的に行うことを優先する教育に拍車をかけるねらいからであろう。
 中間報告がいう「たくましい日本人」の育成とは、グローバル化のもとでの大競争に勝ち抜くのに役立つ日本人の育成という意味ととらえざるを得ない。ここでいう大競争に勝ち抜くとは、個人のことではない。大企業とそれを支える国家が他国との競争に勝ち抜くということである。そうしてみれば「たくましい日本人の育成」とは企業と国家につくす人材の育成を意味していることにほかならない。ここでも教育の目的を教育基本法のいう「人格の完成」から「人材の育成」に変えようとするねらいが如実に示されている。
 グローバル化に基づく「大競争」は、多国籍企業のもとで人間の極限的な「商品化」と貧富の差の拡大を引き起こしている。そこでの「個性」とは「個人の尊厳」を前提にしたものではない。それなのになぜいま「グローバル化」と大競争を自明の前提としてそれに勝ち抜くことを第一義的に考えなければならないのか。日本国憲法の理念にもとづき、平等で公正な日本と世界をつくることこそ、いま追求しなければならないことではないのか。それには、すべての人間の尊厳と人権が保障される社会を求め実現できる主権者を育てることこそ、教育の目的としなければならない。
 したがって、大競争時代を勝ち抜くたくましい日本人の育成という観点からの教育基本法の「見直し」、教育目標の変更には反対である。
(2)グローバル化による大競争に勝ち抜くことを教育の第一義として考えることは、教育そのものにおいても競争と差別を生み出し、必然的に学校や地域という「公共」を分裂・崩壊させることにつながっていく。すでにあらわれているようにいわゆる「公共の危機」が生じることとなる。そこで中間報告はそれを「回避」するために「新しい公共」の再構築を提起している。これが第2の処方箋である。そこで重要な視点とされているのが「日本人としてのアイデンティティ(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)の視点」である。 教育基本法には「愛国心」は規定されていない。しかし、それは理由があってのことである。大日本帝国憲法と教育勅語のもとで進められた教育はまさに天皇の国家を愛し、忠誠をつくすことを求めるものであった。そうした理念のもとで日本が行なった日中戦争・アジア太平洋戦争では、アジアの民衆二千万人以上を殺し、三百万人を超える日本人の犠牲者も生んだのである。その反省から生まれた日本国憲法と教育基本法は「国家主義」をとらず、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すること」「自国のことのみに専念して他国を無視してはならないこと」「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする」決意を鮮明にした。ここには基本的人権を有する国民の主権に基づく国家づくりと、外に対しては人類的視点に立った国際貢献の立場が主張されているのであり、そのなかで「愛国心」のことさらな強調や教えこみは排除されたのである。このような教育の推進は国連憲章に基づく21世紀の国際社会づくりの方向とも一致し、国際社会における日本の価値をより高めるものとなるはずである。
ところが中間報告は、「郷土や国を愛する心」を教育基本法に明示することを求めている。もともと「心=内面の自由」は基本的人権の一つであり、外から介入してはならないものである。教育基本法に「愛国心」をもりこむことによって教育が心の内面にまで立ち入り、特定の価値観を強制することは人権侵害であり、許されない。国旗・国歌法制定以後、教育現場において「日の丸・君が代」の強制が内心の自由をおかしてまですすんでいる実態をみるにつけても、「愛国心」を教育基本法に規定することはきわめて危険であり、強く反対せざるを得ない。
 また「公共」をつくる主体は市民一人ひとりであり、地域をはじめさまざまな場で、平等に人権が保障された市民による自治と自発的な協同の上に成立するものである。ところが中間報告は、「公共」への主体的な参画をいいながら、一人ひとりの市民を主権者として明確に位置づけず、人権と自治の保障についてもふれていない。中間報告は「奉仕活動・体験活動」を重視するとも述べているが、このような「公共」とは、上から決められた枠組みのなかでの積極的な「公共への奉仕」を求めるものに過ぎない。
 なにゆえに「公共」と「愛国心」の名のもとに新しい国家主義の構築をもくろむのか。これは、日本政府がアメリカの世界戦略に追随し、日本国憲法の前文や第9条を変え、戦争ができる国家づくりをめざしているからにほかならない。
 自治と協同による地域づくりを基礎に、住みよい社会、平等で公正な社会、そして平和な世界をつくることをめざす立場から、このような国家主義にもとづく教育基本法「見直し」に反対する。
(3)中間報告では、国際社会への貢献についても随所でふれ、それを教育基本法にもりこむことが必要だと主張している。しかしそこでいわれていることは、環境・エネルギー問題、人口・食料問題など、もっぱら今後の経済活動のなかでぶつかる問題だけが強調され、憲法第9条をもつ日本としてもっとも大切な、憲法第9条を生かした国際平和のための貢献についてはまったくふれられていないことが特徴である。これは、前述のように、経済の「グローバル化」と大競争、戦争のできる国づくりにつながる「愛国心」の強調などと密接に連関するものといえる。このような偏った形の国際貢献を教育基本法にもりこむことには反対する。
(4)そもそも教育基本法に、教育内容にかかわる事項を書き込むこと自体に大きな問題がある。それは、教育内容を法的拘束力をもって規制することになり、教育に政治が介入する結果をもたらすからである。教育基本法に教育内容にかかわることを記述するとしても、それは現行教育基本法にみられるごとく、憲法とかかわる限りにおいてのごく原則的なことにとどめるべきである。中間報告が述べるように教育の具体的内容を教育基本法に書き込むことには原則的に反対である。

3.教育基本法「見直し」の各論部分の問題点
中間報告の第2章では、基本理念にかかわる第1条、第2条のほか、各論部分にあたる第3条以下についての「見直し」も提起している。以下、それについての意見を述べる。
(1)第1は「教育の機会均等」「義務教育」(第三条・第四条)の「見直し」についてである。中間報告には「現行の規定について、『教育を受ける機会』とあるのを憲法と同様に『教育を受ける権利』と改めてはどうか」という意見があったと記述されている。これはきわめて欺瞞的な論法である。なぜならば、日本国憲法の「教育を受ける権利」という個人の権利を保障するために、教育基本法で「教育の機会均等」が掲げられ、すべての国民に「教育を受ける権利」を保障するシステムがつくられているからである。ところが教育基本法の「教育の機会均等」を排除するならば、行政が国民の「教育を受ける権利」を保障する責務規定がなくなり、「教育を受ける権利」は事実上「個人」の権利と狭くとらえられ、公教育の「民営化」に道を開くものとなるであろう。
 義務教育制度の「見直し」を求めていることも重大である。その中で「(1)就学年齢について、発達状況の個人差に対応した弾力的な制度。(2)学校区分について、小学校6年間の課程の分割や幼小、小中、中高など各学校種間の多様な連結が可能となるような仕組み。(3)保護者の学校選択、教育選択などの仕組み」に言及されている。これらは学校教育法等の見直しで対応できるとはされているものの、教育振興基本計画に位置付け学校教育法等の改正への道筋を示すとしていることは、公教育をいっそう多様化・複線化し、結局その解体をめざすことにつながると懸念される。これらの点を答申にもりこみ、あるいは教育振興基本計画に位置付けることには反対である。
(2)「男女共学」(第五条)の「見直し」については、「男女共同参画社会の実現や男女平等の促進に寄与するという新しい視点」から、教育基本法において教育の基本理念として規定することが適当だとしている。しかし、教育基本法は日本国憲法と同様の基本法であって、その趣旨を生かした具体的な法律で対応することが可能なものである。ことさらに教育基本法「改正」の理由とすることには反対である。
(3)「学校教育」(第六条)については、学校の役割を明確に規定することが適当であるとか、「現行法は全体として初等中等教育中心で高等教育の位置付けが明確ではない」こと、私学振興を図るなどの理由で「見直し」が必要としている。しかし、これも男女共学規定同様に現行の法律で対応が可能であり、教育基本法「見直し」の論拠にはならない。
 また、教員の使命感や責務についての規定および「研修と修養」の重要性を盛り込むべきだとしている。これは「指導力不足教員」の名による転退職の強要や、教育行政による各種研修の強制など、現に進められている教員の自主研修・教育課程の自主編成への圧迫と管理統制強化をより徹底させようとするものである。教員の使命感や研修の充実は、教員の自主性・自発性を尊重するなかから生まれるものであり、その点は日本も批准したILO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告」においても認められているところである。このような国際的動向にも逆行する教育基本法「見直し」には反対する。
 子どもの言動にかかわる諸問題は、日々の教育活動のなかで解決すべき問題であって、子どもの責務を教育基本法に規定するなどということは、論外というほかない。
(4)「社会教育」(第七条)については、「家庭」の位置付けが弱いとして「家庭は教育の原点であり、すべての教育の出発点である」立場から「家庭(保護者)の果たすべき役割や責任について新たに規定することが適当」として「見直し」を求めている。このような「見直し」は、「いじめ」「不登校」「学級崩壊」「家庭崩壊」などの原因を主に家庭に押しつけ、行政と公教育の責任を放棄することになりかねない。しかし、現実を注意深くみるならば、リストラによる失業者の増大や過労死に象徴される労働者の無権利状態の進行などが家族や家庭に悪影響を及ぼしている点や、競争社会のなかで、親が不安にかられ自信を喪失したりしている現状を解決することが重要である。
 また、家庭教育の内容にまで法律が介入することは、人権侵害にもなることであって、教育行政の責務は、困難をかかえた家庭への支援であるべきであり、そのためには教育基本法の「改正」をなんら必要としない。
 社会教育については、関係者の意見をよく聞き、現行法がいう国および地方公共団体の責務をはたすとともに、その自立性を尊重すべきである。
 中間報告は学校・家庭・地域社会の連携の重要性について強調しているが、そのこと自体は重要であるとしても、どのような連携協力が行われるべきかについては、多くの問題がある。ここでも自治と協同の精神が尊重されるべきであり、上からの管理統制のための連携協力であってはならない。連携協力という点も元来とりたてて教育基本法にかきこむ必要はないものであるが、とりわけ自治と協同の理念が保障されぬまま、教育基本法に書き込まれることには反対である。
(5)現行法がいう政治的教養の教育についてはひきつづき尊重されるべきである。
 また宗教に関する教育についても、現行法がいう宗教にたいする寛容、国家の不介入が尊重されるべきであり、宗教を道徳教育に利用すべきではない。
(6)「教育行政」(第十条)については、過去の判例を根拠に、国・地方公共団体の責務を示すとしているが、判例の一面的解釈によって、行政が教育内容に介入することを正当化することが危惧される。政治が教育を動かすとき、国民が無謀な侵略戦争にもすすんで協力するという誤った方向に導かれ、戦争の悲劇を生んだことは、歴史の苦い教訓である。第2次大戦後の教育はその反省から出発したのであり、教育への政治の不介入の原則は、ゆるがすことのできない戦後教育の原点である。また、本来、教育は縦の管理の関係ではなく,同僚性に裏付けられた民主的な教員集団の力によって行われるべきものである。そうしたことが教育基本法第10条で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」として規定されている。この規定をないがしろにするような教育基本法の「見直し」は絶対に許すことができない。

4.教育振興基本計画の問題点
 中間報告の第2章では「教育基本法に規定された教育の基本理念・基本原則を実現する手段として、教育の振興に関する基本計画の策定の根拠となる規定」を置くとしている。教育振興基本計画とは、すでにだされているものをみてもわかるように、そのときの一政府が策定するものであり、せいぜい五年間程度のサイクルの計画に過ぎない。これを教育基本法に位置付け、法的根拠をもたせるということは、国会で審議し議決もしないものに法と同じ効力を与えることになり、議会制民主主義の見地から見ても許されないものである。したがって、中教審は教育振興基本計画を教育基本法に位置付ける答申を出すべきではない。もしそれを審議するのであれば、教育基本法とは切り離して審議すべきものである。
 中間報告第三章には、今まで述べた教育基本法「見直し」論につながる見解も多々出されている。しかしそれ以外にも重要な問題が出されているので、これまで述べたことと重複しない範囲で、具体的な計画内容について検討してみたい。
 「いじめ、暴力行為の『5年間で半減』を目指し、安心して勉強できる学習環境づくりを推進する。また、不登校等の大幅な減少を目指し、受入れのための体制づくりを推進する」と述べているが、具体的には「豊かな心をはぐくむ教育の推進」という項目に1行だけ書いてあるだけである。これでは、結局、学校や家庭へ責任を押しつけるだけになってしまうのではないか。
 しかし一方では、実に細かく具体化をはかろうという計画も出されている。その一つは学校の在り方についてである。「才能を伸ばす機会の確保」「習熟の程度に応じた補完的・発展的な学習の充実」「将来の生き方や職業を主体的に選択・決定できるようにするためのキャリア教育の充実」などは子ども達をより激しい競争に駆り立てる計画である。そのために「幼少、小中、中高などの異校種間連携を含めた学校間連携の推進」「多様な学校選択の適切な実施」「就学時期のの弾力化の検討」等を計画している。これは、今までの公教育体制を根底から覆す計画であり、教育基本法の実質的な形骸化をめざすものといえよう。一方、三〇人学級の実施や教職員の加配など教育条件の改善こそ急務であり、地方公共団体の独自の努力でそうしたことが実施されている事例からもその効果は明らかであるにもかかわらず、こうしたことにはまったくふれていない。
 教員に対して「不適格な教員に対する厳格な対応」「新たな教員の評価システムの導入」等も具体的計画として出されている。これも現実に生じている「管理強化」の動向をみるとき大きな危惧の念をもたざるを得ない。さらに「学校におけるマネジメント体制の確立」や「義務教育費国庫負担制度の見直し」「公立学校の教員給与の見直し」などの計画からは、「教育の機会均等」の原則に反し、国家が教育費をださず、教育費の受益者負担主義をめざしているものであり、認めるわけにはいかない。今でも世界一高いといわれる教育費の受益者負担がこれではより一層増大することになろう。
 一方、「道徳教育の充実」「奉仕活動、体験活動の推進」「我が国の歴史、伝統、文化等に関する理解と愛情を深め」「郷土や国を愛する心をはぐくむ教育の推進」等が計画されている。これは、国が教育費は負担しないが、教育内容には干渉するという政策である。
 こうしてみると、教育振興基本計画自身、たとえ教育基本法「見直し」の動きと連動しなくても事実上教育基本法を「形骸化」するものである。したがって私たちは、このような教育振興基本計画には反対である。
 同時に、既に文部科学省によって現実に進められている同様の施策は直ちに撤回し中止すべきだと考える。

5.結論
(1)中教審の教育基本法「見直し」の議論は現実に生じている教育問題を解決しないだけでなく、より深刻な問題を生じさせることが予想される。中教審は、子どもの立場に立ち、ここに述べた意見をふまえて、中間報告を全面的に再検討し、審議をやり直すべきである。
(2)中教審は、教育基本法を見直すべきだとする結論を撤回すべきである。
(3)教育振興基本計画については、教育基本法「見直し」の論議とは明確に区別し、今回の答申からは削除すべきである。
                                      以上


愛媛県教育委員会の「つくる会」教科書の採択に抗議し、
その撤回と採択のやり直しを要求する

 8月15日、愛媛県教育委員会は来年度新設される中高一貫校で使用する中学社会科教科書として、「つくる会」教科書(扶桑社版)の採択を決定した。
 この教科書は、昨年来、歴史事実を無視した戦争賛美の姿勢や、アジア諸国にたいする独善的な考え方などが強い批判をあび、全国の公立中学校でまったく採択されなかった教科書である。今回も、愛媛県知事および愛媛県教育委員会がこの教科書を採択する方向を示したことにたいし、県内外から強い批判がおこったが、それを全く無視して採択にいたったものである。
 「つくる会」教科書の本質は、教師用指導書によっていっそう明らかになった。この教科書を使用した授業展開の例として、生徒に「アジア解放に対する日本の功績」を書かせ、その解答として「日本人が東南アジアの人に戦争の仕方を教えたこと」を生徒に確認させようとしていることなどは、歴史の歪曲の極致であり、このような授業が行われることは、歴史の真実を次代をになう子どもたちに伝えるという私たちの義務に照らしても、日本国憲法・教育基本法の立場からしても、到底許されるものではない。
 採択にいたる過程をみても、重大な問題があることが明らかになった。県内の学校長、教育長などで構成する審議会が作成した「選定資料」では、「つくる会」教科書は2位とされた5社のなかの一つに過ぎない。愛媛県教育委員会がそれを単なる参考資料だとして強引に「つくる会」教科書の採択を決定したことは、加戸知事の政治的圧力のもとでのきわめて政治的な行為であり、教育行政をあずかるものとして、絶対に許されないものである。
 よって私たちは、愛媛県教育委員会の「つくる会」教科書採択決定にたいし強く抗議するとともに、これを直ちに撤回し、改めて民主的手続きにもとづき採択をやり直すことを要求する。  
 私たちは、今回の愛媛のようなうごきを全国どこにおいても許さないために、「つくる会」教科書の本質を明らかにする活動をひろげ、歴史の真実に根ざし日本国憲法の理念を生かす歴史教育・社会科教育の実現にむかって、いっそうの努力を傾ける決意である。また、教育現場の意向が尊重される民主的な教科書採択制度の実現のために、多くの市民とともにさらに力をつくす決意をここに表明する。
                           2002年8月24日 歴史教育者協議会


決議
有事法制に反対し、教育基本法改悪を許さず、
日本国憲法を教育に根づかせよう

 政府が近く国会に提案する予定の有事法制の内容がほぼ明らかになりました。それによれば、いわゆる有事のさいに発せられる命令に従わない民間人への処罰規定がもりこまれ、有事を口実に自衛隊だけでなく米軍にも、現行法に違反するさまざまな行動が認められるものとなっています。これは、憲法第9条のもとで、戦争をしないことを前提に戦後つくりあげられてきた現行法制を根本からくつがえし、基本的人権をほしいままにふみにじることを可能にするものです。そもそもここで想定されている有事とは、米軍の戦争に無批判に追随することから発生するものであって、もし日本政府がアジアの一国としてアジアの平和を構築するために主体的判断にもとづいて行動するならば、今日の世界情勢・アジア情勢のもとでは当然に避けることのできる事態です。この点の吟味をぬきにして、他国からの攻撃が不可避であるかのような前提に立って有事について議論し、しかも日本国憲法の原則をそれによってふみにじることは、到底許されるべきではありません。私たちは、日本国憲法の理念を生かし、有事をいかに避けアジアの平和をつくるかという根本に立ち戻って考えるべきだという立場から、いま政府が成立を急ごうとしている一連の有事法制に反対します。
 戦争のできる国をめざす有事法制は、いま中教審で審議がすすめられている教育基本法の「見直し」とも深くかかわっています。なぜならば、いま出されている教育基本法「改正」案の多くは、いずれも国家への奉仕の義務をもりこむことを主眼としているからです。日本国憲法の理念の実現をめざした教育基本法は、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」を教育の根本原理としています。私たちは「国家への奉仕」の強調ではなく、教育基本法がかかげる理念を徹底することこそ、すべての子どもたちが個人として尊重され、普遍的な真理を学びとり、個性ゆたかな人間として成長する道だと信じます。それは今日の教育現場におこっているさまざまな問題を克服することにもつながるでしょう。21世紀の日本で、子どもたちが平和で民主的な社会の主権者として成長することを願う私たちは、憲法改悪につながる教育基本法改悪を許さない運動を、多くの人々とともに共同してすすめる決意です。

2002年3月31日 教育基本法制定55周年の日に

歴史教育者協議会全国委員会


【声明】
 報復戦争の即時中止と報復戦争支援三法案の廃案を要求し、
戦争と暴力のない世界をきずく行動と学習を推進しよう

  2001年10月11日
歴史教育者協議会常任委員会

 私たちは、無差別殺人というべきテロに反対し、その犠牲者に深く哀悼の意を表するとともに、限りないテロの連鎖を生み出す報復戦争に反対します。それは、平和を希求する人類の長年の努力の到達点である国連憲章と国際法にも違反するものです。ところがアメリカは、一〇月八日、国際世論を無視してついに報復戦争の実行に踏み出しました。私たちはこの暴挙に深い怒りと悲しみをもって強く抗議し、罪もない子どもや一般住民に大きな犠牲をもたらしているこの戦争を一刻も早く中止することを要求します。そのために、いま世界各国におこっている報復戦争反対の世論をさらに大きくしようではありませんか。
 日本政府は、このアメリカの報復戦争を無条件で支持するとともに、アメリカの報復戦争を支援するために、テロ対策特別措置法案、自衛隊法改正案ならびに海上保安庁法改正案を国会に提出しました。これらの法案は、自衛隊を世界じゅうどこにでも派兵することを可能にし、武器使用を緩和し、秘密漏洩にたいする罰則を強化しようとしています。それは国連憲章にも国連決議にも根拠をもたない報復戦争を支援するばかりでなく、憲法違反の集団的自衛権の行使に事実上踏み出し、有事法制整備の動きを一挙にすすめ、日本国憲法第九条を根底から破壊しようとするものです。日本国憲法をいっそう花開かせ、二一世紀を平和の世紀とすることをめざしてきた私たちは、このような法案を絶対に許すことはできません。これをただちに廃案とするよう強く要求します。
 すべての紛争を平和的話し合いによって解決し、核兵器廃絶、軍備の縮小廃止、さらに戦争そのものを廃絶すること、そして紛争の根源となるさまざまな不平等と抑圧を解消することは、二一世紀の人類に課せられた大きな課題です。「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書は、このような未来への展望を否定し、平和をめざす人類の努力の到達点を無視して、国際緊張を強調し、戦争を当然のこととして肯定するものでした。この教科書の採択はごく少数にとどまったとはいえ、力による解決と戦争を容認する考え方は、いまなお根強く存在しています。このような戦争肯定論を二〇世紀の歴史の事実にもとづいて克服していかなければなりません。それは教育の課題としてもきわめて重要です。子どもの権利条約第二九条や、一九八〇年の軍縮教育世界会議の最終文書第六項が、国連憲章にもとづく国際法の諸原則、国際人道法などの尊重とその学習の重要性を指摘していることを想い起こしましょう。これら国連憲章・国際法の諸原則を、二〇世紀の歴史の到達点として位置づけ、日本国憲法こそがその大きな歴史の流れに立脚したものであることを学ぶ運動を、学校で地域でひろげようではありませんか。そして、さまざまな妨害を許さず、真実を学ぶ自由と権利を保障させましょう。


決議
歴史歪曲を許さない運動の成果に確信をもち、歴史教育の新たな発展をきりひらこう

 憲法違反・戦争賛美・国際孤立へみちびく「つくる会」教科書の採択を許さない運動は、いよいよ大詰めとなり、年来の歴史歪曲とのたたかいが、いま、一つの大きな節目をむかえようとしています。私たちは、「つくる会」教科書の採択を許さない運動に最後まで全力をあげる決意です。
 同時に、このときにあたり、私たちは、これまでの運動の到達点を明らかにするとともに、これからの新たな課題をともに確認しあいたいと思います。

 1.歴史歪曲を許さない運動の成果と到達点
 「つくる会」教科書にたいする批判は、私たちのさまざまな努力もあって、この1年のあいだに、急速にひろがり、採択をめぐるおおづめの運動でも大きな力を発揮することができました。
 この1年の運動の第1の特徴は、教科書問題の運動が、教育関係者だけでなく、むしろそれ以上に、日本の進路を誤らせる危険な教科書の出現を憂慮する多くの市民のあいだにひろがったことです。そして、各地方議会での「つくる会」側の請願・決議に反対するたたかいや、各地域で予想をうわまわる多くの参加者が集まって無数の集会が開かれたことに示されているように、まさに「地域」が主役となり、地域の健全な歴史認識と国際感覚に大きく支えられて運動がすすんだことです。それは、「つくる会」教科書を前面に押し立て、草の根からのファシズムをつくりあげようとするうごきに対抗して、草の根の地域から平和と民主主義をつくりあげる展望を示すものでした。
 第2の特徴は、アジアにひろがった歴史歪曲教科書を批判する運動が民衆を主役として行われたことであり、それによってアジアの民衆どうしの連帯が広がり、強まったことです。それは、それぞれの国のナショナリズムをのりこえて、平和と民主主義のアジアをつくろうという共通の願いに結ばれたものでした。アジアの民衆が運動の主役になることによって、単に「つくる会」教科書を批判するだけにとどまらず、平和と民主主義のアジアの実現のために、それぞれの国の歴史教育を見直しつつ、共通の歴史教育、歴史認識を追究するという大きな目標が確認されるようになりました。このことは、この教科書運動が残した大きな財産であり、私たちの今後の活動に大きな示唆を与えるものです。
 その意味で、今大会に出席された韓国の全国歴史教師の会代表から、日韓歴史教育者の交流についての提案が行われたことは、たいへん意義深いことです。私たちは、この提案を真摯にうけとめ、相互の交流と連帯を発展させるために努力する決意を表明します。また、駐横浜大韓民国総領事からメッセージが寄せられたことも、歴教協大会史上に残る大きな意義をもつものです。

 2.これからの課題
 これらの成果と到達点をふまえ、私たちがこれからさらにとりくむべき課題を確認したいと思います。
 第1に、私たちは「つくる会」教科書とそのねらいにたいし、ひきつづき批判を強めます。それによって「つくる会」教科書が採択された学校においても、採択されなかった学校においても、真実にもとづき教科書を批判的に扱う教育の自由を実現することをめざします。
 第2に、その他の歴史教科書についての批判的研究を強め、今回政治的圧力によって大きく後退した記述、とりわけ近現代史における侵略戦争の事実に関する記述の改善を求めます。
 第3に、「つくる会」教科書にたいする検定によって明らかになった検定制度の矛盾を追及し、検定制度の民主化、さらにはその廃止を求めます。
 第4に、現場意見を排除するなど、「つくる会」側の不当な圧力によって改悪された採択制度について、情報公開などを通じてその実態を明らかにし、採択制度の民主化と学校ごとの採択の実現を求めます。
 第5に、21世紀・アジア民衆の連帯の時代にふさわしい歴史認識を国民のなかに確立することを追求します。そのために、アジアと世界の歴史教育者・研究者との対話と共同研究をいっそう推進します。
 第6に、「つくる会」教科書の運動が、管理統制・差別選別を強め、公教育の解体・民営化をすすめる教育「改革」と教育基本法改悪、さらには憲法改悪をめざすうごきと一体のものとしてすすめられていることをふまえ、偽りの教育「改革」、教育基本法改悪、憲法改悪をゆるさないとりくみをいっそう強めます。

2001年7月31日
歴史教育者協議会第53回全国大会会員総会

「新しい歴史教科書」が教育の場に持ち込まれることに
反対する緊急アピール

 去る4月3日、「新しい歴史教科書」(代表執筆者・西尾幹二氏、扶桑社発行)が、文部科学省の教科用図書検定に合格しました。それによって今後は、市区町村教育委員会による教科書採択の手続きが始まることになります。137箇所の検定意見が付されたことによって、いくらかの修正がほどこされたとはいえ、この教科書の問題性が解消されたわけでは決してありません。

 第一に指摘しなければならないのは、検定とその後の自主修正を経たのちもなお、基本的な史実に関する誤認や、歴史学のこれまでの研究成果を踏まえない記述が数多く残されている点です。韓国政府から再修正要求があった任那に関する記述はその典型ですが、そのほかにも政治史、経済史、民衆史の全般にわたって、初歩的な誤り、不正確な記述、とうの昔に否定された学説に依拠した記述などが目立ちます。代表的な箇所を書き出しておきましたので、別紙をご参照ください。歴史学の研究者としては、思想性や歴史観を云々する以前に、この教科書は、はたして真剣に歴史学を学んだうえで執筆されたものであるのか、という疑問をいだかざるをえません。

 第二には、中国・朝鮮に対する蔑視を指摘しなければなりません。文化に関する箇所では、中国・朝鮮や西洋への対抗意識をむき出しに、日本文化の「古さ」や「優秀性」を強調する記述が繰り返され、また近代化の過程における日本の「成功」を賞賛する記述がみられます。その一方で、19世紀の欧米諸国のアジア進出について述べた箇所では、「朝鮮では危機意識がうすく(中略)指導者層も国際情勢の急変に気がつかなかった」とか、「中国は(中略)欧米列強の武力脅威を十分に認識できていなかった。中国の服属国であった朝鮮も同様であった」などと、中国や朝鮮が欧米や日本によって植民地化、ないし半植民地化されていった原因は、中国や朝鮮側にあったかのような記述をしています。とりわけ朝鮮に対する蔑視は覆いがたく、新羅以来の歴代王朝が中国に「服属」していたことが、繰り返し述べられています。これらは、いたずらに中国・朝鮮に対する差別意識をあおるものです。

 第三は、近代における日本とアジア諸国の関係についての記述の問題です。この教科書の近現代史の叙述は、大日本帝国が唱えたスローガンを延々と紹介したり、アメリカ合衆国やロシアの脅威を強調したりすることによって、日本のアジア侵略の歩みを正当化する論調で貫かれています。また、日露戦争で「近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が、当時、世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは、世界中の抑圧された民族に、独立への限りない希望を与えた」と、日露戦争における日本の勝利が世界の民族解放運動を前進せしめたかのような記述をしています。そこには、その後の日本が、「世界中の抑圧された民族」の期待を裏切ったことに対する自省的態度や、植民地支配を受けた人々の苦しみを真摯に受け止めて、これからの日本と諸外国のとの共生をめざそうという姿勢を見いだすことはできません。

 このように「新しい歴史教科書」は多くの問題点をかかえていますが、さらに教科書採択に向けて「新しい歴史教科書をつくる会」(代表・西尾幹二氏)が教育委員会などへの働きかけを強める中で、採択手続きにかかわる新たな問題点も浮上してきています。従来、教師らの調査機関が教科書の内容を比較する資料を作成し、この資料をもとに市区町村教育委員会が教科書を選ぶという手続きが踏まれていました。これによって、教科書採択に現場の教師の意思がある程度は反映されてきました。教師が、教室で実際に教育に携わる存在である以上、教科書採択にかかわるのは当然のことです。
ところが現在、全国各地で教育の専門家である教師を排除する形への手続きの変更が相次いでいます。これは、「新しい歴史教科書をつくる会」が主張してきた内容にそったものですが、特定の教科書の編集主体の要求にあわせて教科書採択の制度を変更するなどいうことはあってはならないことだと考えます。

 私たちは、今日の学校教育における歴史の叙述は、諸国民、諸民族の共生をめざすものであるべきで、自国中心的な世界像を描くことや、他国を誹謗することは許されないと思います。「新しい歴史教科書」が教育の場にもちこまれることによって、共生の未来を築くために必要な、生徒の歴史認識や国際認識の形成が阻害されることを憂慮するものです。そして何よりも、初歩的な誤りの多いこの教科書が使用されることによって、教育内容の質の低下を招くことをおそれています。よって、ここに私たちは「新しい歴史教科書」が採択されることに強く反対します。
2001年5月26日

大阪歴史科学協議会 熊本歴史科学研究会史学会 総合女性史史研究会 地方史研究協議会 中世史研究会 中国現代史研究会 朝鮮史研究会 東京歴史科学研究会 名古屋歴史科学研究会 奈良歴史研究会 新潟史学会 日本環太平洋学会 日本現代史研究会 日本史研究会 仏教史学会 法政大学史学会 歴史科学協議会 歴史教育者協議会 歴史学研究会、史学会、宮城歴史学研究会事務局

[アピール]憲法否定・国際孤立の道へ踏み込む教科書を子どもたちに渡してはならない
 (一)
 国内外で問題とされてきた「新しい歴史教科書をつくる会」メンバーの編集執筆による中学歴史・公民分野教科書の検定合格が明らかとなり、採択に供されることになりました。
 検定によって一部修正が行われたとはいえ、この教科書の全体をつらぬく基本姿勢は本質的に変わっていません。
 第1に、アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」とよび、それが侵略戦争だったことを認めず、アジア解放のために役立った戦争として美化し肯定する立場がつらぬかれています。韓国併合・植民地支配への反省はなく、むしろ正当化する考えは残っています。「従軍慰安婦」の事実は無視し、南京大虐殺についても否定論の立場を一方的に記述しています。
 第2に、神話をあたかも史実であるかのように描いた記述については、一部の字句修正がおこなわれたとはいえ、「神武天皇東征」の地図をそのまま掲載するなど、内容・分量ともほとんど変化がありません。
 第3に、日本の歴史を天皇の権威が一貫して存在していたかのように描き出し、一方ではアジア諸国の歴史を根拠もなく侮蔑的に描き、その上に立って国際的に通用しない偏狭な日本国家への誇りを植えつけようとしている点も、検定意見すらつけられなかった部分が多く、ほとんど変化がみられません。
 第4に、第2次大戦後に廃止・失効となった旧大日本帝国憲法や教育勅語を礼讚する記述は変わらず、大日本帝国憲法のもとでいかに人権が抑圧されたかについての記述はみられません。
 第5に、日本国憲法第9条「改正」論を基調に、国防の義務、国家への奉仕を強調する記述も変わっていません。
 戦後の歴史学や歴史教育は、戦争遂行に歴史教育が利用されてきたことへの反省をふまえ、科学的に明らかにされた歴史事実を何よりも重んじてきました。ところが「つくる会」の教科書は、今日の世界の動向を無視して国際緊張を過大に描き出し、歴史事実を歪めて戦争を美化し、国家への誇り、国家への奉仕、国防の義務を強調しています。これは、子ども・国民をこれからの戦争に動員することをねらうものです。
 「つくる会」側が若干の修正に応じたのは、ともかくこれを教科書として採択の市場に出すことを優先し、それが採択されたならば、次にはより鮮明にかれらの主張を打ち出したいっそう危険な教科書を発行しようとの戦術にほかなりません。「新しい歴史教科書をつくる会」の本来のねらいの危険性が、若干の教科書記述の修正で消え去るものではないことを強調しておかなければなりません。
 戦争への痛切な反省から生まれた日本国憲法の理念をこのように敵視する教科書が公教育の場に登場するのは戦後はじめてのことであり、公教育として許されないことです。時あたかも日本を戦争参加にみちびく新ガイドライン関連法が成立し、改憲をめざすうごきが本格化するなかで、このような改憲のすすめともいうべき教科書が登場したことは、21世紀の日本を左右する重大な問題がその根底にあることを示しています。
 (二)
 そもそも日本国憲法は、日本がふたたび侵略戦争はしないという国際的宣言であり、国際公約でもあることを想い起こす必要があります。また、1982年に教科書検定による侵略の事実の隠蔽にたいしておこったアジア諸国からの抗議を契機に、教科書検定基準に「近隣のアジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から配慮がなされていること」という条項が政府によって付け加えられたことも、忘れてはなりません。さらに最近では1995年の村山首相談話で、アジア諸国に与えた「多大の損害と苦痛」にたいしお詫びと反省を表明しました。1998年の日韓共同宣言でも、「両国民、特に若い世代が歴史への認識を深めることが重要」と表明しています。これらの言明は日本政府の明確な国際公約です。しかもその考え方は、侵略戦争を否定し諸民族の平等と平和を重んじてきた第二次大戦後の世界の潮流に照らしても当然のことです。日本政府はこのような国際公約を守る当然の義務があります。
 ところが「つくる会」の教科書は、こうした日本政府がこれまで公式に表明してきた国際公約に明らかに違反する内容を含んでいます。こうした重大な問題に関し、諸外国の政府・国民が日本政府の対応について意見を述べるのは当然であり、政府としても真摯な対応が求められるところです。これを内政干渉ということはできないことは、外務省自身が国会でも正式に答弁しているところです。
 このような日本国憲法否定・国際公約違反の教科書が出現したことについては、日本政府の責任は重大です。
 第1に、教科書検定制度を廃止するならばともかく、文部科学大臣が検定権限をもつ検定制度を維持している以上、検定合格がその教科書を教室で使用することを公的に承認する結果となることは、なんびとも否定できないからです。そうである以上、政府の責任は免れることができません。
 第2に、このような教科書を検定に合格させ、採択させるために、全国的な政治活動をこの間展開してきたのは、ほかならぬ政府与党の政治家です。さらに既存の教科書から「従軍慰安婦」の記述や「侵略」の用語を削除させるべく、さまざまな政治的圧力をかけ、「自主規制」の名のもとに事実上の強制を行ったのは、政府・文部科学省であり、現文部科学大臣をふくむ政府与党の政治家です。この点での政府の責任はなおいっそう重大です。政府がこのような責任に頬かむりすることは許されません。
 ところが、政府与党の人々はアジア諸国からの批判を内政干渉などと騒ぎ立てて、事実上、国際公約破棄を公然と叫んでいます。これを政府が明確に否定しないのであれば、日本は国際的に孤立の道を歩む過ちを繰り返すことになるでしょう。私たちはひきつづき、このような政府の責任をきびしく追及する決意です。
 (三)
 私たちは、日本国憲法を否定し国際孤立の道へ踏み込む危険な教科書が、子どもたちの手に渡されることを許すことはできません。危険な教科書が検定に合格したいま、各地域でこの教科書を採択させないよう声をあげ、関係機関への働きかけを強めましょう。それによって、日本国民の良識を世界にむかって示そうではありませんか。
 また、既存の教科書の侵略加害と植民地支配に関する記述が大きく後退した問題について、その真相と責任を明らかにし、アジア諸国と共通の歴史認識をもてるよう、教科書記述の充実改善を求め、実現させようではありませんか。
 2001年4月3日

「教科書に真実と自由を」連絡会
子どもと教科書全国ネット21
社会科教科書懇談会世話人会
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク
全国民主主義教育研究会
高嶋教科書訴訟を支援する会
地理教育研究会
日本出版労働組合連合会
日本の戦争責任資料センター
ピースボート
歴史教育者協議会
歴史の事実を視つめる会


【資料】 「つくる会」教科書の検定結果について
1.歴史教育観について
 冒頭の「歴史を学ぶとは」は、歴史学・歴史教育の科学性を否定する重大な問題を含んでいる。しかし、「歴史は科学ではない」の1句を削除し、ワシントンの記述の間違いを訂正したのみで、根本的考え方はそのままである。
2.神話
 神話に関する記述は、史実とは混同していないというアリバイのための最低限の修正をほどこしたのみで、神武東征、日本武尊東征の地図もそのままで、内容・分量ともほとんど変化がない。これでは、事実上、史実と混同しかねない。
3.天皇の地位
 神武以来の皇統譜による歴代天皇の即位順をそのまま示している。幕府による支配の時代も、征夷大将軍の地位が天皇の任命によるものであることをつねに記述し、権力の実態を示していない。つねに天皇が日本社会の最高の権威者であることを強調している。
4.侵略と植民地支配の正当化
 アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」とよび、大東亜共栄圏など日本が戦争目的として掲げたことをそのまま記述し、最後には、アジア諸国の独立のきっかけとなったと述べる。日露戦争時の日本の勝利にたいするアジアの人々の一面的一時的な評価の囲み記事 はそのままである。国内の非戦論にはまったくふれていない。大東亜戦争(太平洋戦争)の緒戦の勝利がアジア諸国の独立への夢と希望を育んだとの記述もそのままである。朝鮮半島は「大陸から突きつけられている凶器」、韓国併合は「合法的」などの記述は一部修正している。しかし、韓国は列強の脅威に対し十分対応できなかった、だから「日本の安全と満州の権益を防衛するために必要」だったなどと韓国併合を正当化している。また、併合にいたる全体的な経過が述べられず、したがって韓国併合の実態と本質がわからない。しかも、併合後、鉄道・潅漑などで開発がすすんだと述べている。「従軍慰安婦」にはふれず、南京大虐殺については、否定論を記述する。いっぽう、中国側の「南京でおこった外国人襲撃事件」については、記述がそのまま残っている。侵略・植民地支配であったことをそもそもまったく記述していない。日本の戦争責任についてはあいまいにし、責任が他国の側にあるような記述が一貫 している。
5.アジア蔑視
 「眠りつづけた中国・朝鮮」という小見出しは改められたが、そのなかの本文はまったく変わっていない。「近代日本がおかれた立場」「近隣外交と国境画定」の項でも同じである。
6.明治国家の評価・大日本帝国憲法と教育勅語
 近代のアジア蔑視とはうらはらに、明治国家を高く評価する点も変わっていない。ここでは、五か条の誓文を近代日本の民主主義の出発点としてとらえる特異な立場が打ち出され、ここでも天皇中心の日本というイメージが押し出される。明治憲法の人権条項の説明で、「法律の範囲内で」という言葉が付け加えられたが、そのことがどういう意味をもち、実際には人権が著しく抑圧されたことについての具体的な説明は何もされておらず、その結果、明治憲法を民主的憲法ととらえるようになってしまう。教育勅語についても、1945年までという限定はつけられただけで、その他の文章はそのまま生きており、教育勅語の賛美は変わらない。
7.国家意識の強調と民衆のうごきの軽視
 とくに古代のところで国家意識の形成を強調し、近代では、国民の義務、国難にたいする意識の形成、日露戦争=国民戦争論など、随所で国家中心思想の存在が強調されている。その反面、民衆のくらしなどは、中世の土一揆までは記述がない。自由民権運動も、政府側との共通面が一面的に強調され、そのなかに流れる民衆の願いは無視される。アイヌ民族のおかれた状況についての記述もない。
8.国家への義務・国防の義務の強調
 日本国憲法にはない国防義務規定を各国憲法からひいて資料として掲載しているのも変わらない。
9.国際緊張を強調し、軍備当然論、安保肯定論を一面的に強調。口絵ページの「国境と周辺有事」では、尖閣列島に強行上陸した代議士の写真を掲載し、そのほか、阪神淡路大震災と自衛隊、国連の混乱と限界、大国日本の役割などのページで、国際緊張を過大に描きいまの世界のなかでの軍事的対応の必要性、軍備の必要を説く。
10.核廃絶否定論
 「核廃絶は絶対の正義か」というコラムは、前半に核廃絶をめざすうごきについての記述が付け加えられたが、後段にはもとの文章がそのまま残ったので、その部分が結論のような形になり、結局、核廃絶への疑問を投げかける形で終わっている。

2001年4月3日
子どもと教科書全国ネット21 ほか12団体

  「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が
      教育の場にもちこまれることに反対する声明

 現在、「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・西尾幹二氏、以下「つくる会」と略称)のメンバーが執筆した中学校歴史教科書の申請本が、文部科学省の教科用図書検定にかかっており、合格すれば2002年度から使用されることになりますが、この申請本の記述は歴史研究者・教育者として看過しがたい多くの問題を含んでいます。
 第一に指摘しなければならないのは、この教科書にはかつての植民地支配や侵略戦争を真摯に反省し、近隣諸国との友好・親善に努めるという姿勢が完全に欠けている点です。韓国併合との関係でいえば、「朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器となりかねない位置関係にあった」という地政学的観点が強調されたうえで、「韓国併合は、日本の安全と満州の権益を防衛するには必要であった」という形で、その植民地化が正当化されています。
 対中国関係では、中国におけるナショナリズムの高揚を「排日運動」とのみとらえ、これを敵視する叙述が目立ちます。たとえば、「排日運動」は「暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響を受け、実際にもコミンテルンの指示を受けていたので過激な破壊活動の性格を帯びるようになった」、「1927年、南京でおこった外国人襲撃事件でも、日本は中国に対してもっとも寛大な態度をとった。ところが中国は、かえって排日運動を激化させた」などの叙述がそれです。
 また、アメリカに対する敵意が色濃くあらわれているのも、この教科書の問題点の一つです。「第二次世界大戦の時代」という章の冒頭には、「日米対立の系譜」という節が置かれていますが、そこでは、アメリカの太平洋の島々への「進出」に関して、「両雄並び立たずとむかしからいう。アメリカは日本の立ち上がりの時期に、日本列島の太平洋側を封鎖した形になる。この封鎖陣形だけで、すでに日本には脅威であった」などという、あまりにも短絡的な位置づけが与えられています。
 第二には、この教科書がバランスのとれた歴史叙述という面での配慮を全く欠いていることがあげられます。たとえば、日露戦争に関する記述では、日本の勝利の結果、「世界中の抑圧された民族に、独立への限りない希望を与えた」ことが強調され、太平洋戦争の緒戦の勝利に関しても、「これは、数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた、現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの人々、さらにはアフリカの人々にまで独立への夢と勇気を育んだのである」など、日本軍の戦争行為がアジア・アフリカの諸民族の独立に大きく貢献したことをくり返し指摘しています。また、日本の傀儡国家であった「満州国」についても、「満州国は、中国大陸において初めての近代的法治国家を目指した。……満州国は急速な経済成長を遂げた。人々の生活は向上し、中国人などの著しい人口の流入があった」というように、きわめて肯定的な評価が与えられています。しかし、その一方で、日本自身が朝鮮・台湾という植民地を保有していたことや、植民地・占領地での過酷な統治の実態については何らふれるところがありません。 戦争犯罪やジェノサイドに関する叙述も著しくバランスを欠いたものとなっています。
 戦争犯罪の場合、この教科書で具体的にとりあげられているのは、アメリカ軍による日本の都市に対する無差別爆撃や、満州におけるソ連軍の蛮行など、連合国側の戦争犯罪ばかりで、日本軍の戦争犯罪については、極東国際軍事裁判のところで、南京事件がとりあげられているだけです。それも「この事件の疑問点は多く、今も論争が続いている。戦争中だから、何がしかの殺害があったとしても、ホロコーストのような種類のものではない」というように、南京大虐殺否定論を一方的に展開しています。 また、他国が犯したジェノサイドについては、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺を詳述しているだけでなく、スターリンの粛正、毛沢東の文化大革命、ポル・ポトの大虐殺などについてきわめて具体的に説明しています。しかし、その一方で、アジア・太平洋の各地で日本が行った数々の蛮行や、その当時は自国民であった朝鮮人に対する差別や迫害については、一言もふれられていません。
 バランスを欠いた歴史叙述のもう一つの典型的事例は、戦争と平和の問題の取り上げ方です。この教科書の戦争観は「戦争は悲劇である。しかし、戦争に善悪はつけがたい。どちらが正義でどちらが不正という話ではない。国と国とが……政治では決着がつかず、最終手段として行うのが戦争である」という一節によく示されています。こうした戦争を必要悪とみる歴史観に立つ以上、第一次世界大戦後の戦争違法化の流れや国際的な軍縮への動きが軽視されるのは、ある意味で当然です。事実、この教科書では、ワシントン会議やロンドン軍縮会議は「第二次世界大戦の時代」の中でごく簡単にふれられているにすぎず、1928年のパリ不戦条約も、「条約は全く無意味なもの」と、きわめて否定的に評価されています。
 そのほか、バランスを欠いた歴史叙述の事例としては、2ページをさいて極東国際軍事裁判の説明にあて、その不当性だけを強調していること、太平洋戦争の戦局の説明に4ページも費やし、それも、「ついに残った300名ほどの負傷した兵が、ボロボロの服で足を引きずりながら、日本刀をもってゆっくり米軍に、にじり寄るようにして玉砕していった」といった情緒的描写に終始していることなど、数多く指摘することができます。
 重要なことは、このようなバランスを欠いた歴史叙述が、生徒が歴史を正確に理解するうえでの大きな妨げとなっている事実です。たとえば、この教科書は、大日本帝国憲法の近代的・立憲的性格を強調し、憲法の発布によって「国民は各種の権利を保障され、選挙で衆議院議員を選ぶことになった」としていますが、選挙自体が制限選挙であったことは全く説明していません。 さらに、歴史叙述が特定の事柄に著しく偏っているため、関東大震災や治安維持法のように重要な歴史的事実にまったくふれていません。また、経済史、文化史、社会史、民衆生活史などの叙述がきわめて簡単になっていることも、この教科書の大きな問題点の一つです。
 周知のように、1995年8月15日に発表された村山首相(当時)の談話の中では「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」と述べています。この村山談話の趣旨は、日本政府がくり返し言明していることであり、今日のわが国の、いわば国際公約になっています。
 また、現行の教科用図書検定基準では、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」、「話題や題材の選択及び扱いは、特定の事項、事象、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること」と明記されています。「つくる会」の教科書は、村山談話以降の国際公約に反しているだけでなく、現行の教科用図書検定基準にも抵触する内容をもっているといわざるをえません。
 新聞報道によれば、この申請本には、検定意見によってさまざまな修正が施されたということですが、「つくる会」の会長である西尾幹二氏自身が「我々の考え方そのものは残っている」と発言しているように、叙述の基本的な流れは申請本に沿ったものになると予想されます。実際、新聞報道で知られるところの南京事件に関する記述は、依然として否定的な見方からのものになっています。
 私たちは、このようなバランスを欠き、国際公約にも反した歴史教科書が教育の場に
持ち込まれることは、生徒の健全な歴史認識と国際認識の育成を阻むものであると考
え、これに強く反対します。
2001年3月13日
地方史研究協議会
中国現代史研究会
朝鮮史研究会
日本現代史研究会
日本史研究会
歴史科学協議会
歴史学研究会
歴史教育者協議会

December 2000 Appeal by Japanese Historians and History Educators

We Cannot Entrust History Education
to a Textbook That Distorts History

At the present moment, inside and outside Japan, voices are being raised to express misgivings about the content of a history textbook developed by the Japanese Society for History Textbook Reform (Atarashii Rekishi Kyokasho o Tsukurukai, hereafter the Society). Many have pointed out that the text "begins and ends with the logic of the powerful" and that it "distorts the history of the past." If it passes the Japanese government's textbook screening, the text will be one of the social studies history textbooks eligible for adoption by local school systems for use in junior high schools in the 2002 school year.

Beginning in the mid-1990s, the Society initiated a campaign to criticize current history textbooks as "masochistic." The Society announced that its members would develop "history textbooks of conscience that will restore the true history of the nation." In April 2000, a draft textbook it developed was submitted to the Ministry of Education for certification. Since then, even though the draft textbook is still in the certification process,* the authors and the publisher have organized a campaign that includes showing a copy of the draft textbook on TV programs, visiting local schools to press for early decisions to adopt the text, and asking municipal legislative bodies to pass resolutions urging the adoption of its text or the exclusion of other texts.

To be sure, we believe that all of us have the right to publish textbooks if we follow the stated procedure. However, there are some accepted minimal standards for textbooks in any subject, including, of course, history. One of them is that there must be no false representations or fabrications in textbooks.

In the Japan of the years from about 1890 until the defeat in the Asia-Pacific War in 1945, it was impossible freely to discuss, record, or make public matters-even factual matters-involving secrets of the state, the military, and the imperial family. The aim of history education was to produce "imperial subjects" who would be utterly loyal to the emperor, and textbooks molded schoolchildren into "imperial subjects." Facts not consistent with these aims were excluded, and sheer fictions constituted the basis of Japan's history education. In this way, the self-righteous and chauvinistic consciousness was developed that served as the basis upon which Japan and the Japanese carried on war after war, inflicted enormous sufferings on people inside and outside Japan, and, in the end, experienced total, crushing defeat. We cannot forget the significant role played in that process by the wrong kind of history education.

Now again, to our dismay, a history textbook is about to appear that attempts to educate today's students by way of sheer fiction. As the media have reported, a number of criticisms have been leveled against the textbook developed by the Society. Here we call attention to just two specific points.

First, the text presents the foundation myths, those compiled in Japan's earliest chronicles, the Kojiki and the Nihonshoki, as historical fact. For example, it describes the eastward expedition of the Jimmu Emperor as if it were historical fact, by showing a map of "the route said to be the one the Jimmu Emperor took." In addition, ignoring all the findings of historical studies on the subject, it states that "the date of the enthronement of the Jimmu Emperor" is "National Foundation Day [a current Japanese national holiday], February 11 on the solar calendar."**

From 1952 to the present, the Japanese Association for History Studies (Nihon Rekishigaku Kyokai), made up of academic societies and individuals from across the nation, has consistently opposed the restoration of this national holiday. This is because Japanese historians and history educators of all ideological persuasions are united in believing that myths must not be represented as historical facts.

Second, the Society's textbook not only legitimizes the continuous wars launched by modern Japan, but it also describes "The Greater East Asian War" as a war for the liberation of Asia.*** For example, the textbook states that, even though Japan was an ally of Italy and Germany, Japan had a state policy to oppose racism, which distinguished it from both the fascism of Mussolini and the Nazism of Hitler. Moreover, it states that the Greater East Asia Joint Declaration, adopted at the Greater East Asia Conference on January 6, 1943,+ embodied the same spirit as the Declaration on the Granting of Independence to Colonial Countries and Peoples that was adopted by the General Assembly of the United Nations in 1960!

In fact, however, even just before the defeat in 1945, Imperial Japan was still committed to a policy of "reserving Korea to Japan," i.e., retaining Korea as a Japanese colony: these facts are clear from documents made public by the Japanese government. (See the section "Territory to Be Yielded" in the document "Policy on Negotiations with the USSR," dated May 14, 1945, drawn up by the Supreme War Leadership Council.)++ To ignore these facts and describe Imperial Japan as if it had been a leader in the liberation of the colonies is to distort history, to construct a "modern myth."

After the defeat in 1945, historical research and education made a new start by reflecting deeply on its major role in leading the nation into war, and it has produced much fruitful work. The Society's textbook is an unscholarly text that not only distorts history but also rejects flatly the academic achievements of postwar history studies and education.

The certification of such a textbook by the Japanese government and its adoption for use in history education will pave the way for the revival of the chauvinistic history education of prewar and wartime Japan. Moreover, not only will it break the international promise Japan made when it modified the textbook screening criteria to require "taking into account international understanding and international cooperation,"+++ but also it will defy international public opinion-particularly in Asia-that seeks peace and democracy. In short, it represents a dangerous attempt that will lead Japan down the path of international isolation.

As historians and history educators, speaking out of our own consciences, we express here, to those inside and outside Japan, our deepest apprehension about the appearance of this textbook.

December 5, 2000

(Signatories as of the above date, with names in Japanese name order)++++
Amakasu Ken, Amino Yoshihiko, Aoki Kojiro, Arai Shin'ichi, Asao Naohiro, Awaya Kentaro, Eguchi Keiichi, Fujiki Hisashi, Furuyama Tadao, Hamabayashi Masao, Hashimoto Tetsuya, Hayashi Hideo, Hirokawa Tadahide, Ikai Takaaki, Inoue Katsuo, Irumada Nobuo, Ishiodori Tanenaka, Ito Yasuko, Iwai Tadakuma, Kadowaki Teiji, Kano Masanao, Kasahara Tokushi, Kasuya Ken'ichi, Kibata Yoichi, Kimijima Kazuhiko, Kimura Motoi, Kimura Shigemitsu, Kobayashi Shoji, Komatsu Hiroshi, Kotani Hiroyuki, Kozawa Hiroshi, Kudo Keiichi, Maruyama Yasunari, Maruyama Yukihiko, Matsuo Takayoshi, Matsushima Eichi, Minegishi Sumio, Miyachi Masato, Miyagi Kimiko, Miyata Setsuko, Murai Shosuke, Nagahara Keiji, Nakatsuka Akira, Nichikawa Masao, Sasaki Junnosuke, Sato Sojun, Suzuki Ryo, Takazawa Yuichi, Taminao Tomoaki, Tozawa Mitsunori, Tsutsumi Keijiro, Yasui Sankichi, Yasumaru Yoshio, Yoshida Akira, Yoshida Nobuyuki, Yoshimi Yoshiaki, Yuge Toru, Wada Haruki, Wakita Haruko, Watanabe Norifumi.

*Although there are no formal legal restrictions on such activity, for years the Ministry of Education has asked textbook publishers not to circulate their draft textbooks.

**National Foundation Day is the restoration of Kigensetsu. Kigensetsu was a national holiday of the prewar and wartime period, whose date the Meiji government decided on in connection with the myth of the enthronement of the Jimmu Emperor. Abolished in 1948, the holiday was restored as National Foundation Day in 1966.

***Daitoa Senso, "Greater East Asian War," was the term for the war coined by the Japanese government in December 1941 and used until the Allied forces insisted on Taiheiyo Senso, "Pacific War."

+On November 5-6, 1943, in order to invigorate collaboration in the occupied territories, Japan held a conference in Tokyo and invited representatives from Thailand, Philippines, Burma, "Manchukoku," China (the collaborationist regime based in Nanjing), and India (the provisional government of Free India). The conference adopted a declaration stating that the countries of "Greater East Asia" would cooperate to pursue the war and "liberate" the region from American/British rule. The declaration had no real effect on the war.

++The Supreme War Leadership Council was established in August 1944. Its members were the Prime Minister, the Foreign Minister, the Army Minister, the Navy Minister, and the Chiefs of the Army and Navy General Staffs. The Showa Emperor also attended the meetings when important matters were discussed. The section "Territory to Be Yielded" stated that in order to succeed in its negotiations with the U.S.S.R, Japan would need to begin to prepare to return Southern Sakhalin to the Soviet Union, renounce fishing rights there, re-open the Straits of Tsugaru (between Honshu and Hokkaido), and cede Japanese railroad rights in Northern Manchuria; Japan, however, would retain Korea.

+++In 1982, after international censure of its revision of history via the textbook screening process, the Japanese Ministry of Education added a screening criterion requiring that, in writing modern and contemporary history, textbooks take consideration of international friendship and cooperation with Japan's neighboring Asian countries. The criterion is called "The Neighboring-Countries Clause."

++++As of March 2001, there were 889 signatories.