<みなさんの声・意見をお寄せください>



 ●埼玉県教育委員に高橋史朗氏を起用?!問題】1人でも多くの方が「平和で民主的な教育」のために
(2004/12/11)


埼玉・川越の堀口です。
12/20に、新しい埼玉県の教育委員に高橋史朗氏を起用する問題についてです。扶桑社版教科書を絶賛する上田清司埼玉県知事は高橋氏を教育委員にしようとしています。しかし、高橋氏は以下のような点から、「教育委員」という職につくことは問題です。

@扶桑社版教科書(しかも近隣諸国との友好関係を築く上で大問題の内容、戦争を肯定し、戦争の準備をさせる教育をアジテーションする)の直接的利害を持っている。
A特定の政治活動を行っている。
B女性蔑視、人権軽視のための活動を行っている。
C地方教育行政第11条第5項にも抵触する不法行為である。
★上記の事柄が問題だと同意される方は、ぜひ「反対である」との意思表示に立ち上がってください。「世論は政治家よりも強し」です。上田知事に「高橋史朗氏を教育委員にすることは問題だ。反対である」旨を伝えれば十分です。ちなみに、この問題で寄せられているメールやFAXは90通で,その内、反対が63、賛成が27だそうです。

(1)埼玉県庁「知事への提言」専用FAX 048-825-1616
(2)埼玉県庁「知事の部屋」提言コーナー
https://prosv.pref.saitama.lg.jp/room/teigen/enq_02.html
(3)ハガキ 〒330-9301 埼玉県さいたま市浦和区高砂3-15-1 埼玉県知事 上田清司 様

・・・・以下、さいたま市で12/10(金)に行われた緊急集会での報告メモ・・・・・・
○ ウソつき知事「高橋氏がつくる会の副会長であったことは就任を要請するまで知らなかった」。→すでに2年前の国会議員時代に選挙区での講演会に高橋氏を招請し、「つくる会の副会長」の肩書きも使っている。
○ 地教行法第11条の5の縛り。「(教育)委員は、政党その他の政治団体の役員となり、又は積極的に政治運動をしてはならない。」
● 高橋史朗氏とはどんな人物か
○ 統一協会(世界基督教心霊統一協会)で「集団結婚」を斡旋していた。「被害者」は多い。→純潔教育の強調。ジェンダーフリー教育を妨害。男女特性論を強調。八木秀次もいた。
○ 改憲団体「日本会議」に所属し、関連団体として「日本青年協議会」を創った。「日本教育研究所」役員。中曽根康弘氏とも親交あつい。民間教育臨調運営委員長(表向き「辞めた」とは言っていない)。
○ 感性教育研究所副所長。2〜3歳の時に刷り込むことが重要。「3歳児神話」。
○ 改憲・反教基法の政治的立場・特定教科書の直接的利害関係者の人間が教育委員になるなどは、およそルール違反。
○ 「ファロスを矯めて国立たず」。環境ホルモンにかこつけて、「生物の雄が雌化する」ことの危機を煽る。それを家庭科教科書のフェミニズム記述を攻撃。
● 「つくる会」の過去と現在
○ 「つくる会」は1996〜97年頃は、よく言えば「右派の統一戦線」、悪く言えば「雑多な右派人脈の金銭的野合」。
○ それを強固にしたのが「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」。お金にルーズ、不道徳見識の政治家が「道徳教育の重視」を主張。
○ その政治家たちによる教科書業界のつるし上げの内容と文部科学省文書「教科書制度の改善について(検討のまとめ)」。
○ 扶桑社と「つくる会」は簡単な蜜月関係ではない。いやいや引き受けた扶桑社。
○ 採択敗北後の「リベンジ」戦略。妄想と事実誤認の西尾幹二の屁理屈。
○ 広がらない支持。「市民運動」方式の限界を認知。政治家との結託を強め、制度を変更させる。○ ビジュアル強化、退職した元教科書会社営業部長の登用、採択対策本部の設置。
○ 中高一貫校と私学重視。それでも成功は愛媛と東京。
○ 専門化喪失。幹部は逃亡。東大教授を辞めた藤岡信勝=佐藤学学部長との関係。
○ 会員の減少。「家族会員」という水増しを新設。この271名がなければ会員数は7569名。858名の減。
○ 教科書は高校5000部、義務教育20万部が採算点。明成社版高校教科書は全国で4761部(2005年度用)。
○ 都立白鴎高校の場合。教育委員が精査することになっているがたった5分。「教科書調査研究資料」すら無視(扶桑社は8社中6位)。
○ 他社への抑圧とダブルスタンダード。執筆の制限・禁止、見本本配布の禁止など。「宣伝禁止」を強制する一方、扶桑社=「つくる会」は何でもあり(『史』2004年7月号)。
○ 扶桑社自身の財務力も限界点に。「デル・プラド・コレクション」シリーズの失敗(11月に倒産)。今度の教科書採択で失敗したら、二度と立ち直れなくなる打撃となる。
○ 1904年の国定教科書登場=日露戦争の年。「汚職事件を防ぐため」と言いながら、実は戦争のために国論を持っていく手段だった。

●佐原眞さん(前国立歴史民俗博物館館長)の逝去を悼む(02/07/13)
 7月10日佐原眞氏がお亡くなりになりました。国立歴史民俗博物館館長を退官されて
体調を崩されているとは聞いていたのですが、あまりに突然の訃報に新聞を読んで言葉を失いました。新聞各紙に書かれているように「気さくな人柄」「わかりやすい考古学」が佐原 氏の代名詞でした。私は『歴史地理教育』562号で対談させていただいたことを生涯忘れません。
私は、『歴史地理教育』532号に載せられていた佐原氏のインタビュー記事を批判するようなレポートを95年の沖縄大会でしました。後日、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡の講演会で、佐原氏が話し終えて公民館から出ようとするところを待ち構えていて、失礼も省みず、そのレポートを手渡しました。佐原氏は突然のことで驚かれたのでしょう、「そうですか」とレポートを受け取り、そのまま通り過ぎていかれました。
96年もおしつまったある日、私は家でひとり子守をしていました。ちょうど姉妹喧嘩の仲裁の真っ最中、幼い下の娘がワーワー泣いて途方にくれているときに電話が鳴り、「この取り込み中に誰や」と八つ当たり気味に受話器をとると、静かな口調で 「佐原です」。あまりにも突然のことで気が動転してしまいましたが、佐原氏は受話器の向こうで泣き叫ぶ子供の声に気を使って「赤ちゃんが泣いていますね。後ほどかけなおしましょうか?」と気さくに話しかけて下さって、いっぺんに緊張がほぐれたのを昨日の事のように覚えています。電話の内容は「批判に答えたいのだが、忙しくて文章にする時間が無い。話だけならできるので、せっかくだから『歴史地理教育』で対談をしよう」というものでした。
対談は明けて97年1月3日に奈良市内のホテルで行われました。私の他に糸乗さんが進行役をつとめてくださいました。くわしくは562号をご覧ください。一介の中学教師である私の主張にも謙虚に耳を傾けながら、ご自分の主張も信念を持って情熱的にお話になりました。最後には「この際だから、他に何か言い足りないことは無い?今回は私の負けですね」と笑いながら花を持たせてくださいました。その後も、このご縁でたびたび著書を送ってくださり恐縮しました。
99年の奈良大会では全体会で講演をお願いし、快く引き受けてくださいました。当時私は、奈良県の仲間によく「ライバルは佐原眞や」と冗談を言っていて、全体会地域実践報告で司会の笠井さんが、本当にそのように紹介したので冷や汗をかきました。佐原氏は、私の実践報告を控え室で聞いてくださり、報告を終えた私を、ステージ裏の通路で拍手しながら迎えて、「ご苦労さん。君の活動がただの歴史好きを育てているのではないということがよくわかりました。」と、ねぎらいの言葉をかけてくださったのも忘れられない思い出です。
私は、佐原氏の現代の問題を考古学の視点から論説する姿勢は、かえって現代史的な視点をぼやかすことになってしまうような(たとえば「戦争や自然破壊は縄文時代には無かった。だから人間が始めたことだから人間の力でなくしていくべきだ」という主張はわかりやすいが、なぜ現代において戦争や自然破壊が深刻化したのかを考えることを飛び越えてしまっている)勇み足が時として見られ、功罪相半ばするのではと思っています。しかし、ご専門の弥生時代研究での業績の大きさは言うに及ばず、旧石器捏造事件で大打撃を受けた日本の考古学にとっては、市民と学問の橋渡し役を進んで引き受けられていた佐原氏の存在は、これからの時代にこそ無くてはならないものであったでしょう。あと10年はご活躍してほしかったと思います。残念でなりません。
何人かの知り合いの考古学研究者からは異口同音に「多忙すぎた活躍ぶり」を聞きました。やっと天国で忙しさから解放されて、一息ついておられることでしょう。安らかにお眠りください。
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